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鞍馬、貴船、三条大橋

<三日目>

 昨日の雨もあがりましたので、予定通り鞍馬に向かいます。もみじのトンネルで有名な叡山電車、市原駅と二ノ瀬駅の間は紅葉も盛りを過ぎているためか、誰も外に関心が無いようです。和風な感じの鞍馬駅前で、立派な鼻の天狗が出迎えてくれます。鞍馬寺の入口である仁王門へは5分程で到着です。

 鞍馬寺仁王門の近くには鞍馬山ケーブルの山門駅がありますが、枕草子で清少納言は「近うて遠きもの鞍馬の九十九折の道」と書いていることもあり、今回はそれに乗らず、九十九折参道を歩いて行くことにしました。山門のそばには、「子供はみんなほとけの子」と書かれた「童形六体地蔵尊」が有ります。参道を上ると、御所に祀られていた由岐大明神を都の北方であるこの地に遷宮してできた由岐神社があります。ここの拝殿は中央に通路がある割拝殿という珍しい形式です。その遷宮の際の儀式に感激した鞍馬の住民が、この儀式と由岐大明神の霊験を後生に伝え守ってきたのが鞍馬の火祭の起源と言われています。参道を更に上ると、鞍馬山の本尊である尊天(大宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化?した「いのち」、天に聳える杉を「玉杉大黒天」と尊崇するための双福苑があります。

 中門辺りで、ようやく参道の2/3です。まだ先は続きます。遠くに朱色の転法輪堂が見えます。重怡上人(じゅういしょうにん)が13年間堂内に籠り、毎日12万遍の弥陀宝号を唱え続け、6万字の弥陀宝号を書いて法輪に納めたのが、転法輪堂の名の由来だそうです。手水舎や転法輪堂の屋根には、雪が積もっています。昨日、京都市内は雨でしたが、こちらは雪だったようです。この先の、貴船までの道が思いやられます。

 鞍馬寺の本殿金堂の本尊は尊天(毘沙門天王・千手観音菩薩・護法魔王尊の三身一体)で、秘仏のため60年に一度、丙寅(ひのえとら)の年(次回は2046年)に開扉されます。また、ここは狛犬ではなく虎です。虎は、本尊毘沙門天のお使いの神獣で、毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていることによるそうです。本殿金堂前のパワースポットで有名な金剛床は、宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模しているとか。金剛床の南側には本殿後方にあった経塚の蓋が、結界の中に置かれています。翔雲台からは、比叡山を望むことができるそうですが、今は雲で遠くは望めません。

 いよいよ険しい山道の「奥の院参道」を進みます。かつて義経が、天狗に兵法を習うために深夜、独り通った道です。少し行くと「屏風坂の地蔵堂」が有りますが、この辺りは、義経が途中で息つぎをした場所とされています。今日、参道は、ぱらつく小雨と、木の上から落ちる雪のしずくで最悪のコンディションです。更に進むと、最澄が刻んだ不動明王が安置されている「不動堂」があります。この辺りは、義経が天狗に兵法を習った場所である「僧正ガ谷」です。夜だと確かに天狗が出そうな雰囲気です。地面が固く、木の根が地下に伸びることが出来なため、地表面でアラベスク模様を描いている「木の根道」を過ぎると、ようやく奥の院である「魔王殿」に到着です。「魔王殿」は、護法魔王尊が降臨した場所して、崇拝さ れてきたとのことです。

 ここからは、貴船に向け、滑らないよう、足下に気を付けながら、一気に坂を下ります。貴船に到着後、一服して、今度は貴船川沿いに、貴船神社の奥宮に向かいます。夏はこの辺り一帯、川床で賑わっているはずですが、今は冬。途中の寒暖計を見ると、丁度摂氏0度です。

 道の脇に鳥居が現れ、そこから奥宮への参道が始ります。最後、神門をくぐると、正面に、奥宮の本殿があります。元々は奥宮が貴船神社創建の地でした。奥宮が洪水で流損したため、1055年に、現在の地に本宮が移されています。奥宮の本殿の真下には「龍穴(りゅうけつ)」と言われる大きな穴が空いていて、その上に社が創建されているそうです。龍穴は神聖なため、誰も見ることが許されません。貴船神社の龍穴は日本三大龍穴(他は奈良県の室生龍穴、岡山県の備前龍穴)だそうです。そう言ういわれもあってか、貴船神社では一番パワースポット感があるようです。

 道を引き返し、最後は、貴船神社の本宮に参拝します。貴船神社は、全国約500社の貴船神社の総本宮です。鳥居から有名な写真スポットの階段を登り境内に入ります。境内に黒馬、白馬の像があり、横の立て札には「貴船神社は、雨乞いの社であり、日照りの時は黒馬、大雨の時は白馬または赤馬を天皇が奉じた。その後生き馬に代え、板の馬を奉じ、ここから絵馬が発祥した」とあります。また、社殿前の石垣から溢れる貴船山の湧き水を、霊泉に浮かべると文字が浮かぶ「水占みくじ」も有名です。今回は占いませんでしたが。

 貴船神社から貴船口駅までは長い下り坂で、徒歩30分くらいですが、これまで歩き続けでしたので、バスに乗ります。5分くらいで貴船口駅に着きます。ここまで来ると、鞍馬山の雪が嘘のように思えます。貴船口から出町柳までの間は、年の瀬で雪模様と言うことも有り、電車内はガラガラでした。

 昼食は、出町柳のフランス料理店epiceで、昼のコースを頂きました。お手軽コースでしたが、魚と肉の両方がでました。何れもおいしかったのですが、特に、オードブルの野菜テリーヌは、非常に手の込んだ料理となっています。店構は古民家を改装した京都らしい町屋で、窓から見える坪庭が雰囲気を出しています。

 最後の見学は二條大橋のそばにある、島津製作所創業記念資料館です。epiceを出て、京阪出町柳駅から、京阪三条駅に行きます。三条大橋はブラタモリの東海道五十七次の番組で東海道の終点として放送していましたので、今回は、番組で出たものの実物を確認をしてみます。まず、橋の東側には、高山彦九郎像があります。幕末の勤王の志士に多くの影響を与えた人物で、昨日見学した皇居を望拝しています。そばには、駅伝発祥の地碑が有りますが、五十七次に因んだためでしょうか。橋を渡って西側で、擬宝珠をチェックすると、やはり、豊臣の文字が有ります。これが出来てから400年は経っているんですね。

 資料館に行く途中、高瀬川沿いを進むと、佐久間象山・大村益次郎遭難の碑と、当時の高瀬舟の復元が有ります。橋のそばの石碑を見ると角倉氏邸址とあり、高瀬川を開鑿した角倉了以は、この辺りに住んでいたようです。

 最後は、高瀬川最北の高瀬川取水口のそばにある、島津製作所創業記念資料館の見学です。この場所は、1875年の創業から45年間本店兼住居として使用されていました。今ある二棟は南棟が1888年、北棟が1894年に増築したもので、登録有形文化財となっています。中は、完全にリノベされており、創業の由来やこれまで製造してきた理化学実験装置等が数多く展示されています。壁に掲げられている家訓は、心に響き頭が下がります。

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京都御所、平安神宮

<二日目>

 当初は鞍馬に行く予定でしたが、駅に行く途中で雨が降り出したので、急遽、明日行く予定だった京都御所に行き先を変更します。平安時代の御所は、ここから西2㎞に有りましたが、焼失後、南北朝時代1331年から500年間ここは御所として使用されています。見学者は乾御門から入り、参観者休憩所で案内開始時刻を待ちます。その間、売店でお土産を購入しました。

 スタートは、宜秋門(ぎしゅうもん)からです。ここから参内した高貴な公家や武家は玄関である御車寄からは入り、諸大夫の間で控えます。こには、襖の絵によって、右から虎の間、鶴の間、桜の間と三つの部屋に分かれていますが、それは身分が高い順です。畳も壁も異なっています。桜の間を使用する人は、御車寄からでは無く、外から直接入ります。隣には新御車寄が有りますが、これは、大正天皇の即位の礼の際、南面からの出入のために新設されたています。 

 京都御所の南には、天皇と国賓のみ使用する、正門である建礼門が有ります。その門から、朱色の承明門を通ると、正面に重要な儀式が行われる紫宸殿が見えます。かつてここで「五箇条の御誓文」が発布されています。紫宸殿の前には、天皇側から見て、右には橘(寒さ対策で小屋の中)、左には桜があります。紫宸殿の中には、天皇の玉座である高御座が置かれています。平成、今上天皇の即位の礼の際は、分解して皇居に運んだそうです。

 紫宸殿の東側にある宜陽殿(ぎようでん)は、御物・宝物を保管しておく納殿ですが、その北側の紫宸殿につながる軒廊で、光る君でおなじみの陣定(じんのさだめ)が行われたそうです。紫宸殿北側の渡り廊下の下を行くと、天皇の日常のおすまいである清涼殿が正面に見えます。その中央、畳を敷いた部分が日常の御座である昼御座(ひるおまし)です。

 清涼殿を出た後は、文学や芸能に関わる儀式などに使用された御学問所(おがくもんじょ)です。孝明天皇が徳川家茂や徳川慶喜と対面する際にも用い、1868年には、岩倉具視を中心とした討幕派が御学問所に参内し、王政復古の大号令を発しました。道を隔てた先にある御常御殿(おつねごてん)は、天皇の日常のお住まいの機能を清涼殿から独立させた御殿で、戦前までは、天皇の京都ご滞在の際には、この御殿が使用されていました。最後は、その隣にある御三間(おみま)です。その名のとおり3つの部屋をもつ御殿で、ここも御常御殿に近い東側を上座として、上段の間、中段の間、下段の間の順に並び、庇の高さが異なっています。帰りは御台所跡を抜けて、出発地点に戻りますが、ここは戦争当時空襲に備えて、建物の間隔を広げるため、台所の施設を取り壊したため空き地となっているとのことです。御所見学の感想ですが、御所周辺も中も、維新以降、いろいろな出来事が起こっていますね。

 一時間程歩きましたので、見学通路そばの、京都御苑中立売(なかだちうり)休憩所で、一休みとします。体験型お茶セット1,400円を頂きました。抹茶の泡立ては、以外と難しいです。

 乾御門を出て、烏丸通りを渡ったところで、カフェレストランUENOYAMAが目にとまりました。昼食には若干早いのですが、混雑も避けたいので、入ることに。きのこパスタのランチセットを頂きましたが、パスタのおいしさに加えサラダも鰹のたたきや彩り野菜が入っていたりで大正解のお店でした。

 光の君の晴明を訪れる前に、最強の御利益があると言われる霊光殿天満宮を参拝します。ここは、2度の蒙古来襲の際、時の後宇多天皇が必勝祈願をし見事退散させたことで有名になり、家康もそれにあやかり、天満宮ですが、ともに合祀されています。道真と家康二人にお墨付きを得た「天下無敵必勝利運」のお守りを頂きました。天満宮なので、ご神体の牛もいます。

 次は晴明に因んだ、堀川に架けられている一条戻橋を訪れます、。ここは一条の名の通り、かつての内裏の東北の角、鬼門に当たります。当時はこの橋の向こう(東側)は寂れており、橋を渡ることには特別の意味があったようです。晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻が怖がったので、十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという言い伝えがあります。橋から5分程歩くと晴明神社があり、実際に戻橋で使われていた欄干の柱が使用され、昔の風情を再現した一條戻橋と式神石像が置かれています。

 京都御苑の反対側、東側に、紫式部の邸宅跡の廬山寺が有りますので、京都御苑を横切ります。途中、今度は御所の外側から、宜秋門と建礼門を見ていきます。御苑東側に接して、明治維新に貢献した三條實萬・三條實美父子を祀る梨木(なしのき)神社があります。ここの一の鳥居と二の鳥居の間には、珍しいことにマンションが有りますが、社殿の修復等の資金集めのため、苦渋の決断で参道を定期借地権で貸したそうです。やむを得ないと思いますが、神社庁の承認は得られなかったようです。

 神社から寺町通りを渡ると、紫式部の邸宅跡に建つ天台宗の廬山寺が有ります。看板に寄ると、紫式部はこの場所で源氏物語を書いていたようです。但し、現在の本堂は1794年に、光格天皇の仙洞御所の一部が移築されたものです。紫式部が居た頃はこの辺りは街外れで、寂しい場所と思います。

 雨もまだ降ったり止んだりですので、雨宿りも兼ねて京都国立近代美術館を見学することにします。丁度、コレクション展をしていました。モンドリアンや甲斐庄楠音(かいのしょう ただおと)、竹久夢二等の絵が展示されていました。見た後は、Ⅰ階のcafé de 505 (カフェ・ド・ゴマルゴ)で、一休みします。

 雨も止んできましたので、平安神宮に行ってみます。美術館の前に神宮の大鳥居があり、そこから参道が平安神宮に続いています。応天門下で入場券を買い、境内に入ります。2025年に御鎮座130の式年を迎えるとのことで、大極殿は大規模に補修工事を行っています。外拝殿で参拝した後、神苑を見学しますが、夕方で雨模様であったためか、観光客はほとんどいません。暮れなずむ中、池に映る泰平閣や神宮会館には幻想的な雰囲気があります。

 今日は四条河原町の「おにかい」で新鮮な京野菜をメインに頂くこととします。1階の入口は狭く、急な階段を上っていきます。野菜料理を数種類食べたあと、魚の煮付け、フライ、牛のステーキを頂きました。〆の鯛飯には、野菜の煮汁を入れ、茶漬けで食べることも出来ます。従業員は皆さん若く、威勢が良いので、こちらも元気が出ますね。

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宇治、石峰寺、伏見稲荷

<一日目>

 人混みを避け、師走の京都に行ってみます。今日は「NHK光る君へ」の影響も有り、源氏物語宇治十帖の舞台、宇治へ。JR宇治駅で降り、宇治橋に向かいます。途中のパン屋さんは、土地柄か、抹茶系が多いですね。宇治橋の袂の夢浮橋之古蹟に、紫式部像が鎮座しています。

 縣(あがた)神社一の鳥居からのあがた通りではなく、横の平等院表参道に進みます。但し、今回は平等院へは行かず、宇治川沿いの、あじろぎの道を歩きます。今年は、暖冬の影響で紅葉が遅かったので、この辺りは丁度見頃です。

 宇治川の中州は「中の島」といい、塔ノ島と橘島からなっています。あじろぎの道から喜撰橋を渡り、塔ノ島に行くと、島の名前の由来となった浮島十三重石塔が有ります。鎌倉時代に建てられた塔ですが、高さ15mもあり想像以上に巨大です。この石塔は、洪水や地震でたびたび倒壊しており、現在のものは明治時代末期に発掘、修造されたものです。対岸を見ると、宇治発電所からの激しい放水流が見えます。橘島に渡ると、樹齢70年の「宇治川しだれ」に出会います。この辺りは、桜の木が多く、シーズンになると宇治川さくらまつりが開催され、ライトアップもされる様です。朝霧橋を渡り、対岸に渡ります。

 上流方向に進み、道元禅師が1233年伏見深草で開き、曹洞宗最古の道場である興聖(こうしょう)寺に参拝します。石門から参道である琴坂を登り、山門から境内に入ります。曹洞宗の道場であることからか、造りは永平寺に似ています。洩れ聞こえる会話から、多くの僧が修行に来られているようです。ここの法堂は伏見城の遺構を用いて建立されているため、天井には血の手形、足形があります。

 下流方向に戻り、宇治神社に参拝します。言い伝えでは、応神天皇の皇子・菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)が河内の国からこの土地に向かう途中で、道に迷っていたところ、一羽のうさぎが現れ、何度も振り返りながら正しい道へと案内したとのこと。そのことから兎は、正しい道へと導く「神使のみかえり兎」とされているようです。その後、菟道稚郎子命はここで自害し、ここに祀られています。

 宇治神社の後方に、菟道稚郎子命・応神天皇・祀っている祀っている宇治上(かみ)神社が有ります。拝殿、本殿ともに国宝で、一帯は世界文化遺産に登録されています。特に、本殿は1060年頃のものとされ、現存最古の神社建築です。拝殿は、鎌倉前期の造営。国宝で有り、世界文化遺産なのですが、神社自体は、とても簡素です。

 宇治川東岸からこの一帯までの道は、さわらびの道となっています。道を先に進み宇治市源氏物語ミュージアムを見学します。内部には、源氏物語での宮中や宇治十帖のシーンが再現されており、平安の文化を体験出来ます。体験コーナーには源氏香が展示されています。源氏香は、5種類の香木がそれぞれ5つずつある中から5つ選び、その香木の香りの違いを当てるもので、組合せが全部で52通りあるので、『源氏物語』全54帖から最初と最後を除いた52帖の各名が解答名に使われています。実際やってみると、私にとっては匂いそのものが微かで、良く分かりません。

 遅くなりましたが、昼食は、宇治橋近くのつばめ屋で、えび天茶蕎麦を頂きました。最後は、近くにある、宇治橋の管理を任された放生院(橋寺)見て宇治を後にします。

 伏見では、稲荷に行く前に、若冲が晩年過ごしたことで有名な石峰寺を訪れてみます。住宅街にある細い石段を上って行くと、黄檗宗に特徴的な龍宮造りの山門が見えてきます。門をくぐり受付を済ませ、参拝の後、裏手にある若冲の墓を訪れます。ここが、今人気が沸騰している若冲の墓ですが、ここの周りは静寂に包まれています。更に石段を上り、唐門を過ぎると竹藪が有り、その中に500体(かつては1000体)の、若冲が石工に彫らせた羅漢像が展開しています。現在、写真撮影は禁止されていますが、色々な表情の苔むした石像がこちらを見ており、その規模観や迫力はこれまで見た五百羅漢の中では一番でした。

 今日の最後は稲荷神社の総本宮の伏見稲荷大社です。石峰寺からは徒歩10分程です。大社では、早速狐が出迎えます。伏見稲荷大社では、右の狐は稲穂・玉、左の狐は巻物・鍵をくわえているようです。それぞれの由来は諸説有るようですが、狐を見るたびに確認していきます。そうこうするうちに千本鳥居に入り、途中の三つ辻を左に曲がり、今日の観光は終了とします。

 夕食はホテルのそばの風屋杉原に行きます。前回同様、カウウターですが、今夜は比較的お客さんが少なかったためか、ご主人から、駅伝の話(昔活躍されており、今は支援側、後援チームは週末の京都高校駅伝に参加する由)、錦市場の問題、地元京都のオススメのお酒等々お話をずっと伺うことが出来ました。話に夢中になり、写した料理以外にも色々頂きましたが、撮影を忘れてしまいました。知識が増え思い出深い夜になりました。

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湯布院、杵築

<三日目>

 今日も晴れています。幸運なことに、朝食は、昨日と同じ席でした。今日は、湯布院に向かいます。途中、別府の街と別府湾の眺望が楽しめる、十文字原展望台と、高速道路の別府湾サービスエリア内の「恋人の聖地」に立ち寄ります。この二つの場所は下の写真にあるように立命館アジア太平洋大学の駐車場を挟んだ位置にあります。由布岳の裾野を抜けると、狭霧台展望台がありましたので、これから行く湯布院の街を眺めます。

 昼食には少し早いのですが、金鱗湖に面した「CAFE LA RUCHE」に入り、きのこのタルティーヌとホットドックを頂きます。食事後、金鱗湖周辺を散策します。紅葉しかかった木々が、鏡のような湖畔に絵画のように反射して映っています。しばらく遊歩道を歩くと天祖神社に行き着きます。境内には御神木の大杉がそびえていますので、触れて、パワーを頂きました。この金鱗湖には竜の伝説があります。「ここは昔大きな湖で竜が住んでいた。ところが由布岳の女神である宇奈岐日女(うなきひめ)が湖壁を蹴破らせ、湖水を奔流させると、現在の由布盆地が現れた。急に湖をなくし、神通力を失った竜は、天祖神に、この地に安住の地を与えてくだされば、永くこの地を護りましょうと言い、願いが叶った」と言う話です。

 金鱗湖から、ショップやカフェ、小さなギャラリーが建ち並ぶ湯の坪街道を歩いて行くと、由布院駅に到着します。道から駅にかけ観光客が大勢居ますが、8割方は外国人、特に韓国の旅行者が多いです。戻りは、辻馬車の通り道である「参宮通り」を通って帰ります。この道は、先ほどの伝説にある湯布院盆地を造った宇奈岐日女を祀った神社への参道です。

 湯布院に、大分県随一の大きさを誇る巨木があるということで、町から1㎞ほどの山裾にある大杵社(おおごしゃ)に行ってみます。そこは、当日観光客はだれもおらず、シーンと静まりかえった中に、鄙びたお社があります。その境内に、見るからに年期を経た大杉がそびえています。パワースポット感大ありです。

 湯布院に来たからには、やはり温泉に入りたいということで、湯布院盆地を見下ろす高台にある温泉保養集落「束ノ間」に立ち寄りました。ここの温泉は、昔の湯治場のスタイルで、食事の提供は無く、自炊あるいは外食です。そこの一角が立ち寄り湯となっており、券売機で入湯券を購入して、湯殿に向かいます。当日、男湯は無人だったので、晴れ晴れとした空の下、乳白色の湯殿で、雄大な由布岳を、一人で堪能できました。

 杵築では、杵築城の見学からスタートします。城の近くまで車で行けるらしいのですが、知らないので駐車場から徒歩で向かいました。杵築城は三方を海に囲まれた海城で、東向きに突き出た形状です。大きさは東西に650m、南北290mだそうです。天守までは、思った以上に歩きます。天守からの眺望は、三方が川の河口で、海城で有ったことが実感できます。

 時間が少しありますので、九州の小京都といわれている街を散策します。城から5分程歩くと台地が有り、勘定場の坂を上ると、北台武家屋敷通りになります。両側には昔の武家屋敷が建ち並びます。土塀の一部が剥落している所もありますが、良く整備されていると思います。萩などもそうですが、古い街並みの維持はとても費用が必要と思います。最後はふるさと産業館観光案内所でお土産を買い、今回の大分旅行は終了です。空港に向かいます。

 大分空港への途中、夕食を、元禄うどんで頂くことにしました。クロメ(佐賀関特産の海藻)うどんと具が多く入っている元禄特製うどんをお願いしました。それにビールとお酒:西の関(国東市)。窓の外では、守江湾が暮れていきます。

 おんせん県での最後は、空港到着口の右手にある足湯です。この温泉は別府から直送しているそうです。利用は無料です。ところで足湯ののれんに書かれていますが、大分空港を、水平型宇宙港として活用する「スペースポートおおいた」の構想があるようです。今年九月に訪れた北海道大樹町と同様ですね。

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大分、臼杵、別府

<二日目>

 今日も晴れています。窓からは、遠くに製鉄所が見えます。朝食前に府内(大分)城址に行ってみます。内堀や、周囲を囲む櫓、大手門等は美しく復元されています。但し、大手門を入った所にある大分城址公園は、殺風景な駐車場でがっかりさせられますが、天守台は残っていますので、急な階段を上って四方を見てみます。大分県の中期計画では天守閣も復元され、この一帯は様変わりとなるようです。

 朝食後は、臼杵市に向い、石仏と城を見学します。最初は臼杵石仏です。観覧券を購入して、小高い丘に登りますが、昨日の熊野磨崖仏に比べると全く楽です。ホキ石仏第一群、第二群、山王山石仏、古園石仏の順に見学します。ホキとは「崖」という意味でこの一帯の地名です。何れも平安後期から鎌倉時代の作です。古園石仏は、磨崖仏では、全国で初めて国宝に指定され、その後、石仏群の追加指定が有り現在60体程が国宝とのことです。大日如来像の前で、家内安全と身体健全の御線香を捧げました。

 臼杵石仏周辺は盆地となっており、現在、臼杵石仏公園となっています。昔は、一帯が磨崖仏を本尊とする満月寺(蓮城法師創建)という五院六房からなる天台宗の大きな寺院だったようです。現在も、臼杵石仏公園を挟んで反対側に、満月寺があり、そこには、石仏を彫ったと言われる蓮城法師と、法師に石仏を彫らせたという真名野長者夫妻の像(室町時代の作)等があります。

 臼杵は、当初はキリシタン大名として有名な大友宗麟の領地でしたが、最終的には、稲葉家が廃藩置県まで治めていました。稲葉家は東京に移りましたが、里帰り用の下屋敷が現存しています。その隣には、地元出身の実業家、荘田平五郎が1918年に寄贈した大正時代の図書館があります。落ち着いた街の雰囲気が漂います。では臼杵城に向かいます。

 臼杵城は、周囲の海が天然の要害となり、堅固な守りを誇っていたようです。それではまず鐙(あぶみ)坂から城内に入っていきます。落石の危険があるため、坂は防護壁で覆われています。上りきったところに大門櫓があり、そこから二の丸に入ります。現在、ここは公園で、一部はグラウンドになっています。二の丸から空堀の間を進むと本丸になります。本丸も天守櫓も、今はその面影はありません。城の東端には亀首櫓跡があります。遠くに津久見島が見えますが、かつてはこの下から海が続いていました。最後、臼杵市観光交流プラザに立ち寄ります。

 昼食は別府、地獄蒸し工房鉄輪(かんなわ)で、地獄蒸し料理を頂くことに。平日でも混んでいますので、予約をして、先に地獄巡り観光を始めます。地獄巡りの共通券には7つの地獄がセットされているので、近くの白池地獄からスタートします。ここはその名の通り、青白いお湯が大量に沸いています。どの地獄も別個にアトラクションを持っており、ここはアマゾンの熱帯魚です。次は、鬼山地獄です。ここも緑白色のお湯がモクモクと沸き出しています。ここはワニの大量展示です。ワニは夜行性なので、あまり動きません。次は、かまど地獄です。一丁目から六丁目まで様々な色の温泉が湧いています。そろそろ予約した蒸し工房の時間になりますので一旦観光を中断します。

 地獄蒸し工房鉄輪のシステムは、各自食材を選んで、自ら15分程98度100%地熱の蒸しガマで蒸すという物です。食材は持ち込みも出来ます。メニュー3番の地獄蒸し玉手箱を選択しました。アルコールは禁止で、ノンアルビールを自動販売機で購入しました。

 昼食後は、海地獄から再開です。ここは温泉の熱を利用した庭園がアトラクションです。ここもコバルトブルーの温泉が大量に吹き出しています。温度は98度とのこと。この地区の最後は鬼石坊主地獄です。粘土質の熱泥が球状に沸いており、坊主頭に似ていることがその名の由来だそうです。べつの噴出口からは轟音が鳴り、それが鬼のいびきの様に聞こえることから、「鬼の高いびき」とも呼ばれるものもあります。ここの足湯場が空いていましたので、早速入ってみました。

 血の池地獄、龍巻地獄は2㎞ほど離れています。行く途中の道からは、別府の街と別府湾がよく見えます。血の池地獄はその名の通り、酸化鉄やマネシウムを含んでいるため、噴気まで赤く染まっています。高台に上って全体を見回すと、以外と面積は広く湯量の豊富さが窺えます。最後は、龍巻地獄です。間欠泉です。15分毎に噴き出すようです。危険なので、上に覆いがあり、遠くに熱湯が行かないようになっています。これで、地獄巡りは終了。いずれにしてもこの一帯の湯量はすごい!それでは宿に向かいます。

 今日の宿は、界別府です。部屋の窓は別府湾に面しており、晴れていましたので、大分の工業地帯や遠くには四国も見えます。食事にはまだ時間もありますので、別府の街を歩いてみます。駅前の通りには、歴史を感じさせるアーケードや温泉があります。駅の看板にはやはり温泉マークが描かれていました。駅前に手湯の施設がありましたので手を浸してみました。

 夕食は遅めの19時30分からです。このホテルは、隈研吾設計事務所の設計で、竹細工、手漉き和紙など当地の工芸を用いて内部空間をデザインしたそうです。そんなことを感じながら、2階から1階の食事処に向かいます。席は幸運にも、窓のある席でした。料理もタイミング良く出され、素敵なひとときを過ごしことが出来ました。

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熊野磨崖仏、宇佐神宮、耶馬溪、大分

<一日目>

 今回は温泉県、大分に来ました。空港から、最初の目的地、熊野磨崖仏に向かいます。受付で参拝料を支払い、入口から階段を登って行きます。途中は、急ですが、道は整備されています。10分程行くと、熊野神社の鳥居が有り、そこから先は鬼が積んだという急な石段です。足下の悪い中、手すりにつかまりながら100m程登ると、ようやく磨崖仏のある広場に出ます。

 この磨崖仏は11世紀頃(平安時代後期)の造立作と言われており、右は「不動明王(約8m)」、左は「大日如来(6.8m)」となっています。急な石段を更に上ると熊野神社に到着します。名前の通り、ここの神様は、紀州熊野からお迎えした権現様です。

 次は、全国4万社ある八幡社(応神天皇を主祭神とする)の総本宮である宇佐神宮に参拝します。駐車場脇にある太鼓橋前大鳥居をくぐり、神橋を渡って表参道に入ります。さすがに総本宮だけあって、掃き清められた表参道が、神橋を渡った所にある大鳥居から300m位続きます。ここ宇佐神宮の鳥居は、柱の上部に黒い台輪があるのが特徴です。

 表参道の右側には宝物館(残念ながら当日休館)、日本三沢の池と言われている初澤の池(他の二つは奈良の猿沢の池、京都の広沢の池)があります(他の二つほどは大きくないですが)。手水舎の水盤は日本一の大きさだそうです。皇族下乗場を過ぎると、上宮本殿と下宮への分かれ道になりますので、左の石段を進みます。途中には三角形の石が寄り沿うように並ぶ夫婦岩が有ります。一人なら両足で、二人ならそれぞれが手をつないで踏むと幸せになるとか。

 階段の先にある鳥居と西大門を抜けると、国宝の宇佐神宮本殿となります。本殿そのものは回廊に囲まれ、直接は見ることが出来ませんが、一之御殿、二之御殿、三之御殿と三棟が八幡造りという形式で、横並びで建って居るそうです。回廊の横には樹齢800年といわれる楠の神木があります。本殿の反対側には、宇佐神宮の奥宮が鎮座する御許山(おもとさん)の遙拝所、急な階段(百段)と南大門があります。

 本殿の参拝を終え、若宮神社(応神天皇の子、仁徳天皇とその皇子を祀る)を通って、下宮に参拝します。ここは古くは神へ捧げる食事を調理する場であったとのこと。下宮も回廊に囲まれ、内部には一之御殿、二之御殿、三之御殿と三棟が八幡造りという形式であります。ここは上宮とことなり、回廊の正面にお社が見えます。

 八幡大神が現れたという御霊水に向かいます。途中、池の向こうに能楽殿が見えます。御霊水の内部には3か所、泉が有ります。覆いを開けると、湧水がありますが、濁っていて飲めそうにはありません。期待外れ。傍に柄杓があり、水を持って帰ることは可能です。最後は、寄藻川に架かる呉橋(くれはし)をみて、参拝を終了します。この橋は、10年に1度の勅祭の時だけ扉が開くようです。

 昼食を取るため、寄藻川沿いの道を歩き、仲見世に向かいます。文福で、だんご汁定食を頂きました。だんごというと球状にしたものと考えますが、大分では手で引きのばしたものをだんごと言うようです。定食には、名物の鳥の天ぷらも付いていました。

 昼食後は、耶馬渓に向かいます。最初は、山国川(やまくにがわ)に架かる耶馬渓橋の見学です。1929年に作られた8連アーチの石橋で、長さは116mあり、石橋としては日本一の長さです。そこから10分ほど車で川沿いを進むと荒々しい岩肌の競秀峰があります。そこへの道は現在は、トンネル交互一方通行で行けますが、昔は「鎖渡し」と呼ばれる難所で、遭難者も多かったとのこと。見かねた江戸時代の僧「禅海」が自らノミと槌で掘ったのが青の洞窟です。よくも手で掘れたなと思う規模です。

 山国川水系の山移川(やまうつりがわ)をせき止めて、1985年造られたのが耶馬溪ダムです。完成を記念して、耶馬渓ダム記念公園「渓石園」が造られました。耶馬渓の石とダムの水を利用して、耶馬渓の渓流を再現しています。無料で、美しい庭園を鑑賞することができます。

 今日の最後の目的地である、耶馬渓随一の景勝地、深耶馬に到着し、さっそく一目八景展望台に行ってみます。紅葉シーズンはこの展望台は超満員のようですが、今はまだ紅葉には早く、また日暮れも近いので、観光客はまばらです。ここからは群猿山や夫婦岩など奇岩や断崖を一望できます。下を山移川が流れていますが、巨石が転がっており、洪水時の流れの強さが伺えます。この辺りは山だけでなく、途中にある山移川の流域には奥入瀬渓流のように木々のトンネルがあり、紅葉シーズンはさぞや美しいと思われます。

 耶馬渓から大分市へは、高速で1時間半ほど。今日の宿泊先はホテル日航大分オアシスタワーです。ホテルでアーケード街にある「八條」を紹介され、行ってみます。お通しの鮭の豆乳煮から始まり、関アジ関サバ、アジフライ、ホタテのバター蒸、締めは大分の郷土料理の琉球丼でと、何れも美味で大満足でした。

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小諸、軽井沢

<二日目>

 ホテルからは、小諸中心部が一望出来ます。眼下に小諸駅があり、電車の発着もよく見えます。食事の前に、小諸市内を散歩、ホテルそばの北国街道からスタートします。最初は、旧小諸本陣問屋場ですが、現在大修理中です。その直ぐ先には、脇本陣の宿「粂屋」が有ります。この通りは300m位ですが、意外と昔の建物が残っており、北国街道の雰囲気を感じることが出来ます。

 小諸は、島崎藤村が7年間小諸義塾の教師として過ごしたことから、藤村ゆかりの地としてもアピールしています。藤村がかつて過ごした場所がある、北国街道に直交する道の一つを「藤村プロムナード」と名付けています。また、近くに清酒「浅間嶽」の醸造元である大塚酒造の酒蔵がありますが、HPには「軟水主体の信州の酒蔵のなかで、小諸の水は随一の硬度を誇り「浅間嶽」の酒質の核を成しています」とあり、蔵が開いている時間に来て、試飲したいな~と思いました。途中、小諸城大手門や小諸宿本陣主屋を見学してホテルに戻ります。

 小諸→軽井沢は、電車で25分です。駅前交番の奥にあるレンタ-カー屋で車を借り、最初は旧碓氷峠に向かいます。まず、そこに鎮座する神社に参拝しますが、そこは参道から本宮まで、真ん中が群馬県と長野県の県境となっており、本宮に向かって左が熊野皇大神社(長野県、信州)、右が熊野神社(群馬県、上州)です。ややこしいですね。

 次に、浅間山や八ヶ岳が一望できるという見晴台に行ってみますが、丁度ガスが濃くなり、眺望は全くありません。ここにも県境が有ります。

 この辺で一服。神社の丁度反対側にある「元祖力餅しげのや」に入り、味噌くるみとあんこの力餅を頂きました。店にはオープンテラスが有り、とても開放感があります。ここも残念ながらガスのため、遠くの視界はありません。この店にも神社からの県境が横切っています。外に出ると「中山道」の道標がありました。ここは、軽井沢と高崎を結ぶ中山道、その碓氷峠なんですね。

 軽井沢に降ります。上皇ご夫妻がかつてプレーされた軽井沢会テニスコート近くの駐車場に停めます。テニスコート通りを通って、旧軽井沢通り(旧中山道)に出ます。平日の午前中ですが、そこそこ観光客がいます。通りから犀星の径に入ると、そこは急に別荘のエリアとなります。室生犀星旧居は1931年に建てられていますが、和風の建築と苔むした庭が調和して、京都の苔寺のような感じです。

 旧軽井沢通りを更に北に進むと、ショー記念礼拝堂、ショー記念館が有ります。ショーは軽井沢の避暑地としての適性を初めて紹介した人です。軽井沢に最初の別荘を建てています。その別荘は現在ショーハウス記念館として無料で開放されています。避暑地なので、冬はとても寒い感じがします。道を更に進むと、矢ヶ瀬川にぶつかり、そこには碓氷峠の石碑があります。

 昼食の時間となりましたので、ハルニレテラスに行ってみます。湯川沿いのハルニレの木立の中に多くのレストランがありますが、どこも混んでおり、1時間以上の待ちです。ここでの食事は諦め、追分でお蕎麦を頂くことにしました。

 追分の「ささくら」は、昼食時でも有り混んでいましたが、15分程待って座れました。たれが、クルミだれ、とろろ、ざるつゆの3種類付いているそば三昧をお願いしました。量も多く、いろいろな味が楽しめました。ささくらの道の反対側には、脇本陣油屋の跡が有ります。現在の建物の前に、今有る建物と同じ規模の建物があったようです。

 旧中山道の追分宿(江戸から20番目の宿)を、東の一里塚から西の分去れ(わかされ)まで歩いてみます。ちなみに追分の1里塚は日本橋から39番目とのこと。まず1里塚近くにある追分宿郷土館をを、見学します。そこで探検マップを頂き、スタートです。館に隣接する浅間神社(あさまじんじゃ)に参拝します。この本殿は、軽井沢町で一番古い建物で、江戸時代ここから浅間山に登っていったそうです。

 追分宿の中程に堀辰雄文学記念館があります。堀辰雄は1944年から1953年に亡くなるまでこの地で過ごしています。記念館には、原稿、書簡、初版本、遺品他が展示されています。敷地には、住んでいた家が展示されており、当時の生活窺えます。書庫は完成しましたが、書籍を搬入する前に、亡くなったとのことです。合掌

 追分宿の西にある分去れ(わかされ)までやってきました。左は中山道、京都まで、右は北国街道、直江津までです。今回の旅行では、善光寺から逆に、上田、小諸とここまで北国街道を辿ってきました。分去れの近くには、旅人が一休みしていた「枡形の茶屋 津軽屋」が保存されています。肝心の本陣跡は今は草ぼうぼうです。近くの「一歩BAKERY」のテラスでパンとコーヒーを頂き、街道の散歩を締めくくりました。

 駐車場に向かう途中、手前にある泉洞寺に寄ってみます。このお寺には、堀辰雄も訪れていたようです。境内には地蔵尊が多くありますが、卓球地蔵尊やカーリング地蔵尊と言うのもあります。

 最後は、北軽井沢の白糸の滝に向かいます。遊歩道の入り口から「白糸の滝」までは、水量の多い湯川の源流に沿って、5分程度歩けば到着します。浅間山の地下水が高さ3m位の位置にある岩肌から滔々と湧き出してきます。不思議な光景なのでしばらく眺めていました。暗くなってきましたので、軽井沢に戻ります。

 軽井沢に着いた頃、丁度雨が降ってきました。夕食は、駅の近くのサンジェルマンで、評判の和牛ひれステーキを頂きました。店の外観は、喫茶店風です(写真撮り忘れ!)。確かに肉は柔らかくて、ペロリと入ります。

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善光寺、上田城、小諸城

<一日目>

 今回は、電車で長野へ。長野駅からは路線バスで、善光寺大門に直行します。仲見世を進むと立派な仁王門がありますが、1918年に再建されたもの。仁王像は、高村光雲と米原雲海の作です。さすが迫力があります。更に仲見世を進むと、駒返橋があります。これが橋?という見た目ですが、かつて源頼朝が善光寺を参拝した際、馬の蹄が穴に挟まり、馬を返したという逸話があるようです。

 さらに進むと、「善光寺」の扁額がかかげられた巨大な山門(1750年建立)があります。この山門には登れるようです。山門をくぐり、右手にある六地蔵、ぬれ仏を過ぎると、いよいよ本堂です。その階段を上り、外陣に入ると「びんずる尊者」に会います。病人・けが人は、その像の患部と同じ場所を撫でることで治癒されるとのことなので、私も目鼻口を一撫でしました。外陣での参拝の後、巡り券を購入し、本堂内部での参拝とお戒壇めぐりをします。お戒壇めぐりはご本尊の下の真っ暗な回廊を通り、中間地点にある「極楽の錠前」を探り当てるものですが、光のなにも無い空間を、手探りで進むという滅多にない経験をしました。

 まだ時間もありますので、善光寺近くの長野県立美術館を見学します。丁度、「琳派、若冲、ときめきの日本美術(京都細見美術館の名品)」を催していました。若冲は、極彩色の有名な絵は有りませんでしたが、鶏の掛け軸、屏風絵など20点ほど展示されていました。美術館のある城山公園では、信越放送「夢テレビ」のイベントが行われており、あばれる君とカミナリがゲストで来ていました。

 善光寺の表参道である中央通りを駅に向かって歩きます。大門の八幡屋礒五郎本店は、ベンチが七味缶のデザインです。少し歩くと、小川の庄おやき村がありましたので入ってみます。焼きおやきは食べたことが無かったので、店の奥にある焼きのコーナーに行ってみます。お茶はセルフですが、テーブルがあり、焼き立てを頂くことが出来ます。

 11時、開店と同時に今むらそば本店に入ります。まずは日本酒(菊秀)を飲んで、次におそばを頂きます。「クイチそば」はこの店の登録商標だそうです。せいろには冷たいつけ汁も付いていますので、暖かいそばと冷たいそばが味わえます。

 蕎麦屋さんの前からは、善光寺表参道秋まつりの会場となっています。チンドン屋や4基の町神輿、木遣り、太鼓、お囃子などが巡回しています。中央通りの歩道に長蛇の列、そして遠くには煙が見えましたので、近くに寄ってみると、案の定サンマを焼いていました。時間になりましたので、長野駅から新幹線に乗り上田に向かいます。

 上田までは10分程です。上田駅は、通路から外壁まで真田の六文銭一色です。駅のお城口から上田城を目指して歩きます。駅前で、真田幸村の騎馬像がお出迎えです。

 街の中心部の道路には、真田十勇士の像があります。途中上田藩主居館跡がありますが、なんとそこは現在、上田高等学校の敷地となっています。お堀と塀に囲まれた校舎です。

 お城の手前にある上田市観光会館で、パンフレットを頂きましたが、この場所の主役は真田親子の甲冑です。壁には、来た人のサインが掲げられていますが、結構有名人が来てますね。

 二の丸橋の入り口から城内に入ります。入口右手に二の丸跡があり、左に折れ、進むと、東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん、虎口とは城の出入口のこと)が見えてきます。櫓門の右側に真田石がありますが、これは真田信之が松代移封の際、父の形見として持ち運ぼうとしたが動かせなかったという大石です。ところで櫓門の前に大勢の人がいますが、当日「95点以上で1万円、年間最高得点者には100万円!」という透明カラオケBOXが開催されており、その参加者と観客です。

 櫓門は、南櫓の石垣を上って、中に入ることが出来ます。櫓内部の狭間から下ある上田城跡公園を覗くと、丁度「やきとりJAPANフェスティバル2024in信州上田」の最中で、焼鳥の煙が狼煙のようにも見えます。昔はこのエリアは、千曲川の流れる天然の堀だったようです。

 櫓を下りて、すぐそばにある眞田神社に参拝します。この神社は、もともとは真田氏の後ここを治めていた松平氏の先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社でした。当然ですよね。それを、1963年に眞田神社と改称し、歴代の上田城主を御祭神とすることにしています。神社の脇には、眞田井戸(本丸唯一の井戸、深さ16.5m)や西櫓(県宝)があります。本丸跡は今は特に何もありません。

 上田城から15分歩くと、柳町という旧北国街道の昔ながらの街並みがあります。ぶらりした後で、はすみふぁーむ&ワイナリー(アンテナショップ)で、白ワインとシードルを頂きました。ここから徒歩で上田駅に行き、今日の最終地の小諸に行きます。

 小諸駅までは、しなの電鉄で20分ほどです。小諸駅の反対側、東西自由通路の階段を下りたところに懐古園(小諸城址)の三の門があります。料金所で散策券(300円)を購入して園内に入ります。すぐに傾斜が急で高い(写真に写っている人と比べると高さがわかります)二の丸の石垣が現れます。

 しばらく進むと、懐古神社が見えてきます。本丸跡の立て札がそばにあります。この神社は、廃藩置県で廃城となり、城が荒廃していく様を憂いた元藩士らが資金を集め、本丸跡に祀ったのが懐古神社とのことです。神社の左側には天守台の跡がありますが、上から下を覗くと、高さは10m位あるでしょうか。手すりもなにも無いので、落ちたら命は有りません。酔っ払いと心臓の悪い人は登らないでとの注意書きがあります。

 馬場の跡を進み、冨士見展望台に行きます。本来は富士山が見えるのでしょうが、その方向に木立があり、見ることはできません。その場所から白鶴橋を通って市営の動物園に行くことが出来ます。この橋から下を覗くと、高さは30mは有るでしょうか、険しい渓谷となっています。この城を作った武田信玄、仙石秀久は、この周囲が急峻な地形を最大限活用してこの城を整備したようです。

 最後は、水の手展望台に行き、千曲川の流れを見ます。展望台のそばには島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の詩碑があります。藤村は、こうした荒涼とした城跡、千曲川、周囲の山々を見て詩情に浸ったのでしょう。「小諸なる古城のほとり・・・・嗚呼古城なにをか語り、岸の波なにをか答ふ・・・・」

 今日の宿は、懐古園から歩いて数分の場所にある小諸グランドキャッスルホテルです。夕食はそこから徒歩で15分ほどの、レストラン車留夢で、そこの評判の大浅間爆裂ハンバーグを頂きました。まずサラダ、次にハンバーグが出てきますが、中はまだ生なので、熱い鉄板の上で切り分け、火を通しながら頂きます。油ははねますが、評判通り美味しく頂けました。

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襟裳、新冠、苫小牧

<三日目>

 朝の5時頃、夜が明け始めますので、朝食前に、ホテルの外の海岸を散歩します。海岸では拾い昆布漁(流れ着いた昆布の採取)がおこなわれています。漁師さんがまっけ(ひっかける鈎)を投げて、都度手繰り寄せますが、ほとんど昆布は拾えていません。早朝にもかかわらず、昆布が既に干場(かんば)に並べられています。

 漁港では、大きなブリが盛んに水揚げされています。漁師さんに聞くと、温暖化の影響で、サケは不良で、ブリが取れるようになったとのことです。昆布漁の船が港にずらりと並んでいますので、今日の昆布漁は休業のようです。

 ホテルに戻る前に、襟裳神社に参拝していきます。ホテルの入り口には、マスコットの犬が、鎮座しています。その前を通っても、こちらは無視されます。

 チェックアウト後、襟裳岬に向かいます。天気は良く、さわやかな風が吹いています。岬の遊歩道を散策します。展望台の横には、島倉千代子と森進一の歌碑が、並んで建っています。展望台から岬の先端へは、5分程歩きます。先端から見える岩礁にはアザラシがいるようですが、肉眼ではよく見えません。

 展望台の下には、風の館という体験施設があります。そこの展望ゾーンには望遠鏡が10台ほど設置され、係の方が事前に角度を調整していますので、覗くとそこにゼニガタアザラシがいます。館には、えりもの風体験コーナーがあり、最大で25m/sの風を体験dきます。風洞の直前は、その風速なのですが、確かに立っているのは難しいです。

 襟裳岬から広尾方向向かう砂浜は、百人浜と呼ばれています。名前の由来は諸説ありますが、何れもこの場所で多数の人が亡くなったことは共通しています。ここ一帯は、かつて開拓民が燃料にするために木を切りつくして森が砂漠化し、生活の糧である昆布が死滅しかかっていました。それを、再び緑の森に復元させるため、1953年から壮大な治山事業が開始され、現在に至っています。この経緯は、NHKのプロジェクトXでも取り上げられています。展望台からは、和人の青年とアイヌの娘の別れ、その娘の涙でできたと伝えられている悲恋沼が見えます。

 国道336号沿いに、えりも町郷土資料館がありますので、見学します。館内には、えりもの昔の生活の展示等ありますが、圧巻は昆布の標本展示です。北海道で採取される代表的な昆布が一堂に観察できます。場所別に、これ程の等級差があることを、初めて知りました。この一帯で取れる昆布は、日高(三石)昆布ですが、北海道には、他に、羅臼、利尻など7種類あるようです。

 昼食は、静内の回転すし「ちょいす」で。「お得な10貫セット」と、エビとウニを追加で頂きました。

 新冠は、競走馬の産地として知られています。競走馬の牧場が集積している「サラブレッド銀座」に向かいます。その起点には「サラブレッド銀座駐車場」があり、そこからは、広大な、牧牛とは異なった、牧場が俯瞰できます。その通りを車で10分ほど行くと、優駿記念館と優駿メモリアルパークがあります。館内には、過去の優駿の記録、記念品が多数展示され、メモリアルパークには、オグリキャップをはじめとした優駿の墓があります。その中でも、オグリキャップの墓は一番立派です。

 次は、判官岬に向かいます。途中、新冠川にかかるメロディー大橋を渡ってみます。橋の手すりには楽譜が施され、橋の中央の庇部分に行くと、鐘のメロディーが流れます。車を降りて、15分程雑木林の中を歩きます。人が誰も居ませんので、ヒグマが出ないかとびくびくしながら進みます。木立を抜けると、判官岬の展望台があり、そこから新冠の街と太平洋が一望できます。帰りも、怖いので急いで林を抜けます。

 新冠は、レコードの街も標榜しており、その中心であるレコード館には、100万枚を超えるレコードが収蔵されているそうです。ここの駐車場にも、ハイセイコーの像があります。さて、ここからは、高速を通り新千歳に向かいます。

 飛行場に行く前に、苫小牧で創業し、ハスカップを使ったロールケーキで有名な三星(みつぼし)本店に行き、ショートケーキを頂きました。時間もなくあわただしかったので、今度は余裕を持って伺いたいと思います。

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帯広、更別、幕別、大樹、広尾

<二日目>

 今日は、帯広から襟裳に向かいます。帯広の本格的な開拓は、依田勉三等の「晩成社」が、1883年に、この地に入植したことから始まります。帯広を発つ前に、これに因んだ史跡を見学していきます。

 次は、旧国鉄広尾線の幸福駅に向かいます。駅舎とその周辺は幸福交通公園・ふれあい広場として整備されています。駅舎には訪れた人のメッセージがたくさん張られています。この駅舎から幸せの鐘を覗く位置は、カップルが記念写真をとる定位置です。売店で切符が売られていましたので、記念に買いました。

 次は、道の駅「さらべつ」に立ち寄ります。更別では、地元高校生の考えたキーマカレーやチーズカレーを買ってみました。後で伺ったのですが、更別は道内で唯一衛星通信での5G配信で、ドローンの自動航行による農薬散布や、無人ロボットトラクターの実証実験がされているとのことです。

 次は、幕別町の道の駅「忠類」に向かいますが、その前に、丸山展望台に行き、十勝平野を俯瞰します。展望台を下ったところに道の駅は有ります。忠類は、ゆり根の名産地らしく、ゆり根やゆり根入りの食品が多数販売されています。さっそくゆり根大福を買ってみました。道の駅の隣に、忠類ナウマン象記念館があります。1969年に、旧忠類村晩成の農道工事現場で、偶然化石が発見されたとのことです。ここのマンホールは、ナウマン象がモチーフとなっています。

 大樹町に着きました。昼食ですが、ご当地グルメはチーズサーモン丼とのこと。昼に頂けるのは、晩成温泉の食堂だけとのことなので、30分(25㎞)程車で走って、行きました。チーズサーモン丼は、その名の通りチーズで包んだサーモンの天ぷらがのった天丼です。大樹町で盛んな酪農と漁業のハイブリッドなのですが、こんなものかな、という感じです。食事後、温泉に入りました。タオル付で500円、褐色のモール温泉で、湯船の窓からは太平洋が望めます。

 大樹町は、「宇宙のまち」を標榜しています。ホリエモンが出資、役員をしているインターステラテクノロジズの本社、打ち上げ場があります。その一角に、大樹町宇宙交流センターがありますので、見学してみます。ここでは、案内の方から丁寧な説明を伺うことができます。現在は1000mの滑走路ですが、将来的には3000mの滑走路(用地確保済)を建設そうです。現在開発しているのは、特に需要が伸びている小型人工衛星を打ち上げるためのロケット「ZERO」で、2024年度の打ち上げを目指すとのことでした。町には技術者が集まり、人口も増え始めているようです。

 今日の最後は、広尾町です。ここには、ノルウェーオスロ市から認められた、日本で唯一のサンタランドがあります。そこに行く前に、サンタランドがある大丸山の頂上展望台から、広尾町の市街地の全景を見てから、山の中腹のサンタランドに向かいます。入口でベルを鳴らして入ります。やはりここにも「恋人の聖地」がありました。サンタの家でサンタグッズを買いました。今年は「サンタランドツリー点灯式」は10月26日(土)だそうですが、イルミネーションは夜ですよね。

 今日の宿泊先の襟裳町に向かいます。途中の道は、絶壁と岩礁の中、多額の費用をかけて通したことから「黄金道路」と呼ばれています。途中には、岩盤から湧き出た水が道路のすぐ脇に流れ落ちるのが珍しい「フンベの滝」があります。冬は氷瀑になるようです。海岸沿いに慰霊碑が多くありますが、昔から海難が多かったのでしょう。

 今日の宿は、クリフハウス・柳田旅館です。イギリスのアンティーク家具が自慢です。窓からは襟裳漁港と太平洋が見えます。