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柳川、大刀洗、日田

<三日目>

 昨日は、柳川の街を散策していなかったので、食事前に少し歩いてみます。あいにく雨が降っています。まずは柳川城本丸に向かいます。かつての城跡は、本丸が柳城中学校、二の丸が柳川高等学校のキャンパスとなっており、石垣や堀が残っているのみです。元の城の中堀沿いに、遊歩道が整備されていますので、歩きながらホテルに戻ります。途中には船頭さんの訓練所の看板がありました。船頭さんを募集している会社のホームページを見ると、水に対する恐怖心が無ければ、3ヶ月の研修で、必ず漕げるようになり、唄も学べるそうです。

 朝食事後、幸いなことに、雨はあがりました。今日は、柳川城の北東(鬼門)に鎮座する三柱(みはしら)神社からスタートします。三柱神社は、初代柳川藩主 立花宗茂、岳父 戸次道雪(べっきどうせつ)、宗茂の妻 誾千代(ぎんちよ)の三神を祀っていることから三柱神社と称されています。宗茂は、関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、一度は柳川を去ることとなりましたが、その後に功績が認められ再び柳川藩主に返り咲きました。西軍で元いた領地に戻ることができた大名は、宗茂ただ一人だったことから、「復活の神様」として、崇敬されています。一方、妻の誾千代も、父から城主を譲られ、武装し軍を指揮するなど、様々な伝説が残る「戦う女城主」として知られており、柳川では、「立花宗茂と誾千代」の大河ドラマ実現の招致活動が行われています。

 今日はこの後、アド街で3月に放映されていたことも有り、日田に向かいます。途中、今村天主堂と大刀洗平和記念館を見学します。今村天主堂は、1913年に竣工した教会で、現在、国の重要文化財に指定されています。普通の日本の住宅地のまん中に、2つの塔を持つロマネスク様式の赤レンガ作りの建物が、どーんと聳えている光景は、建設に献身的に労働奉仕をした多くの熱意が感じられます。残念ながら、建物は現在耐震工事中で、中を見学することはできません。

 そこから来るまで10分程の場所に、大刀洗平和記念館が有ります。この一帯は、かつて「東洋一」と謳われた大刀洗飛行場を中心とした、日本陸軍の西日本最大の航空拠点でした。大戦末期には、この飛行場は、知覧などに向かう特攻隊の中継基地となっていました。そうした経緯から、館内には、航空特攻で戦死した約4,000名の名簿が展示されています。航空機の展示としては、いずれも世界で唯一現存している零式艦上戦闘機三二型と九七式戦闘機、また、ゴジラ-1.0の撮影のために製作された震電の実物大模型があります。

 大刀洗から日田(ひた)に向かいます。昼時になりましたので、ここでは名物の日田焼きそばを、「三久」で頂きます。こだわりの自家製麺を使用し、炒めるというよりは焼くと行った調理法なので、通常の焼きそばに、ベビースターラーメンが入っている感じで、モチッとした食感とパリッとした食感の両方があります。ソースも自家調合だそうです。

 日田は、「進撃の巨人」の作者である諫山 創の故郷です。「進撃の巨人」の、周囲を壁に囲まれるという閉塞した設定は、作者が「壁のような山に囲まれた」と表現する出身地からの着想だそうですが、そのエリアは、更に先に行く必要があります。サッポロビール九州日田工場の敷地内に、進撃の巨人 in HITAミュージアム ANNEXがありますので、替わりにそこに行きます。館内には、作者がセレクトした、コメント付きのシーンが展示されています。

 今日の最後は、日田の豆田町の散策です。無料駐車場は、月隈公園に有りますが、そこは、慶長年間に小川壱岐守が永山城を築城し、徳川の時代からは幕府直轄地となり、日田代官の居城となったところです。今は、その城跡は石垣と堀の一部が残るだけになっています。花月川に架かる御幸橋を渡ると、豆田町に入ります。御幸通りをしばらく進み、左折、左折で上町通りに入ります。「歴史薫る小京都」といわれていますが、街自体はそれほど大きくありませんので、30分位で一周できます。最後に、上町通りの端に、清酒薫長醸造元・薫長酒蔵史料館がありましたので入り、日田の記念に「薫長ミニボトルセット」を購入しました。この街は、大宰府と異なり、韓国語を話す人が7割くらいで、中国語はあまり聞こえてきません。湯布院も同じ状況でしたので、韓国語を話す人は、福岡からここを経由して湯布院に向かうのでしょうか?これで今回の福岡の旅行は終了し、福岡空港に戻ります。

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福岡城、久留米、柳川

<二日目>

 今日も天気は良さそうです。初めは福岡城に行きます。この城は、黒田長政が関ヶ原の戦いの戦功により、筑前国ほぼ一国(52万石余)を与えられ、福岡藩の初代藩主になり、それに伴い豊前国中津(大分県中津)から移ったことにより造られました。城名は、黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡(岡山県)に由来します。海側からは、鶴が羽ばたく姿に似ているため「舞鶴城」とも呼ばれており、この一帯は現在、舞鶴公園となっています。建物はあまり残っていませんが、石垣や縄張りがほぼ当時のままの姿だそうです。地元からは天守の建設要望が有るそうで、ここで行われる「さくらまつり」では仮設の天守が造られます。行った日は、その解体工事がされており、残念ながら、天守台に上ることが出来ませんでした。

 舞鶴公園内の元平和台球場の跡地に、鴻臚館跡展示館がありますので見学します。鴻臚館は飛鳥・奈良・平安の約400年間、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館や、日本の遣唐使や遣新羅使の宿泊所として使用されました。この遺構の発見は1987年と最近です。ここからまっすぐに昨日訪れた大宰府まで道が続いていたようです。

 今日の宿泊先は柳川ですが、途中の久留米で、久留米城と水天宮に立ち寄ります。初めは、久留米城ですが、これは、江戸時代の250年間この地を治めた有馬氏の居城です。城は、筑後川が宝満川と合流する左岸の丘の上に築かれています。明治になり、城は解体され、現在は本丸に、有馬記念館と篠山神社が建てられています。二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となっています。

 次は水天宮です。安徳天皇の母である高倉平中宮(建礼門院)に使えていた女官伊勢が、壇ノ浦の戦いの後、筑後川の川辺りに遁れ、1190年、初めて水天宮を祀ったのが、水天宮の由来です。従って、水天宮の御祭神は、安徳天皇、高倉平中宮(安徳天皇の母、二位の尼 平時子(建礼門院の母、平清盛の正妻)と天御中主之神(あめのみなかぬしのかみ、最初の神)です。東京の水天宮は、有馬藩邸の御分霊が、現在の中央区日本橋に御遷座したもので、全国各地に鎮座する水天宮はすべてここの御分霊社です。

 柳川市の北東、中山熊野神社で、「中山大藤まつり」が開催されていますので、立ち寄ります。一面の藤棚できれいだったのですが、4月17日段階ではまだ1分?咲きです。柳川市のホームページの写真を見ると、22日の満開時は見たことも無い程美しい光景で、非常に残念です。それにしても藤の花の蔓は一週間程で一気に伸びるんですね。藤を見た後は、柳川市内に入るの手前にある「からたち」に入り、当店一押しという店内の広告を見て、担々風旨辛うどんを注文しました。確かに辛旨でした。

 宿に車を置き、早速、徒歩での市内観光です。ホテル近くの「柳川藩主立花家邸 
御花」に行きます。ここは、五代藩主 立花貞俶(さだよし)が、二の丸から建物を移築し、側室や子息たちを住まわせた場所です。季節の花々で彩られるようになったことから、「御花畠(ばたけ)」の愛称でよばれたようです。現在も立花家が「御花」として受け継ぎ、資料館を維持しながら、ここでホテル、宴会場を運営しています。大広間からは松濤園が隅々見渡せ、気候も丁度良かったので、いつまでも眺めていたい気分でした。居間のひな壇の回りには色とりどりの「さげもん」が飾られていますが、これは、柳川の習わしだそうです。

 次は北原白秋生家・記念館を見学します。ここは白秋生誕百年を記念して、酒造業を営む白秋の分家の土地に建設されているそうです。白秋は酒造業を営む裕福な家に生まれていますが、大火で酒蔵が全焼し、家は傾きます。焼け残った母屋を復元したものが、現在、生家として公開されています。記念館では、白秋の人生とともに、柳川の歴史が紹介されています。

 柳川で真っ先に思い浮かぶ風景は、かつての柳川城の掘割を、どんこ舟(どんことはハゼの仲間、観光用に使われる以前にはどんこ舟で魚をとっていた)で巡っていく風景です。掘割は市全域には総延長およそ930㎞!有るそうです。本日宿泊するホテルの裏側から川下りの舟が出ますので、早速船着き場まで行き、乗船します。波がありませんので、舟は揺れずに進みます。低い橋を横切るときは、客は体を舟の底で横にする必要があります。そのとき船頭さんは、舟から上の橋に飛び乗り、横切った後、舟に飛び降りてきます。観光船の運営会社は7社有りますので、舟は前後に見え、船頭さんの歌声も聞こえてきます。今回乗った伯舟観光の船頭さんも、地元の民謡など3曲歌って頂けました。船頭さんは自己紹介していましたが、ホールでも歌う現役のオペラ歌手だそうです。

 夕食は、地場の材料を使った特別会席です。柳川は鰻が名物なので、前菜で鰻の骨煎餅がどーんと出ます。献立を見て知らなかった食材は、前菜のクチゾコ(有明海で獲れるシタビラメの仲間)のしょんしょん(味もろみ)焼き、お造りのせいまき(有明海産のクルマエビ)、酢の物のミロッゲ(有明海産の赤貝)です。スマホで確認しながら頂きました。最後は鰻の相盛り重、デザートのプリンとスイカで終了です。

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宗像大社、太宰府、博多

<一日目>

 暑くなる前に、九州福岡に行きます。福岡空港から、最初は、宗像大社に向かいます。この社は、日本書紀で、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれた宗像三女神(田心姫神 たごりひめのかみ、湍津姫神 たぎつひめのかみ、市杵島姫神 いちきしまひめのかみ)を祀っています。厳島神社、松尾大社など宗像神を祀る全国6200社の総本山です。宗像三神は、沖ノ島(田心姫神、沖津宮)、大島(湍津姫神 中津宮)、宗像市田島(市杵島姫神 辺津宮)にそれぞれ祀られています。宗像大社は、三社の総称です。

 辺津宮参拝後、高宮参道の途中に、第二宮(田心姫神の御分霊)、第三宮(湍津姫神の御分霊)がありますので、お参りします。これで、三社にお参りしたことになります。参道を上り、一番奥に高宮祭場があります。ここは市杵島姫神降臨の場とされ、全国でも珍しい社殿の無い古代祭場です。パワースポット感が溢れています。

 辺津宮の境内に、沖ノ島から出土した奉献品8万点(全て国宝!)を中心に所蔵している神宝館が有りますので、見学します。これほど国宝が膨大な理由は、沖ノ島全体が御神体で、神職以外は上陸できず、1000年以上手つかずで守られていたためです。

 次は、太宰府に向かいます。まずは天満宮へ。宗像大社とは違い、参道も境内も中国語を話す人で溢れ、ぱっと見7割?くらいか。まずは花より団子ということで、参道にある中村屋で、焼きたての梅ヶ枝餅を買いました。焼きたてなので、餅が香ばしく、中の餡子とコラボします。この餅は、不遇の日々を送っていた道真公を哀れんだ尼が、餅に梅の枝を添えて送ったのが由来だそうです。

 おすすめ参拝ルートのに従って、境内を進みます。鳥居の前には、天神様の使いの牛がいます。参拝者は、鼻の辺りを撫でるので、そこが金色に光っています。鳥居をくぐると、心字池に架かる太鼓橋を渡ります。雰囲気は、亀戸天神に似ています。本家にあやかっているので当然です橋を橋を渡りきったところに、麒麟と鷽(うそ)の像があります。側の説明書によれば、麒麟は聖人が現れて王道が行われるとき出現する想像上の動物で、暗に道真を讃え、鷽は、一年中の嘘を天神様の誠心と取り替える鷽替神事ゆかりの鳥で、幸運を運ぶとあります。

 楼門の先に、本殿が有りますが、現在は大改修中で、2027年頃までは仮の本殿で参拝します。屋根には樹木が生い茂っていますが、工事開始時の写真と比較すると、大分成長し、大きく、太くなっています。2年後完成予定とのことですが、屋根の重量が増え、落ちないかと心配です。本殿右手はに、飛梅の木があります。道真公を慕って、都から大宰府へ一夜にして飛んできたと伝えられる、太宰府天満宮の特別な御神木です。本殿裏手には、観光客はあまりいませんが、樹齢1500年の大楠やひろはちしゃの木といった天然記念物があります。

 次は、太宰府天満宮近くにある九州国立博物館を見学します。東京、京都、奈良に次いで4番目に開館していますが、その大きさは、想像以上の巨大さです。常設展は4階で、特別展は3階で、訪れた時の特別展は、はにわ展でした。東京の次に開催されていたようです。常設展のテーマは日本とアジア、ヨーロッパの文化交流の歴史ですが、その古代の展示は、「はにわ」から始っており、はにわの展示物もかなり充実しているので、わざわざ特別展に行かなくても、と、感じました。昼食をまだ取っていないので、ここのレストラン「いい乃じ」で、九州の食材である明太出し巻き、あおさ海苔、糸島あげが入った「いい乃じうどん」を頂きました。

 大宰府政庁跡を訪れます。大河ドラマ、「光る君へ」では、まひろが来ていましたが、今は一面の原っぱで、礎石だけが残っています。跡地に隣接して、大宰府展示館がありますので見学します。そこには、大宰府政庁と大宰府のジオラマが有り、当時の様子を説明しています。当時は、大宰府政庁から博多まで、一直線の道があったようです。今の元号、令和は、ここで催された、万葉集「梅花の宴」、<時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ…>という満ち足りた情景から採られていますが、その梅花の宴で出された食事のジオラマもあります。今見ても豪華ですね。

 博多まで戻る途中に、水城跡が有りますので立ち寄ります。この辺りは、博多湾から太宰府に抜ける平野が最も狭くなる場所で、守りに適していることから、白村江で大敗した翌年の664年、長さ1.2㎞、幅80m、高さ9mの土塁と、その博多側に幅60m、深さ4mの濠が、突貫工事で造られています。かつて東門があった場所の近くに、土塁をくり抜いて「水城館」が設けられていますので、そこで5分程の説明ビデオを見た後、東堤の土塁に登ってみます。上から、西堤の土塁が見えます(濠の跡は見えません)が、想像以上に大きく、これを1年で造らねばならなかったという、その危機感が伝わってきます。ここを訪れるまでは、水城は海岸に近い場所にあるから水城だ、と考えていましたが、巨大な濠があったから水城というんですね。

 夕食はホテルの方の紹介で、近くの、「遊食亭」に行きます。ビジネスセンターに近いためか、お客は、会社帰りや接待のサラリーマンが大半でした。刺身中心に地場のものを頂き、日本酒も、「博多一本〆」と「博多の森」をお願いしました。刺身のイカも、残りの部分は、天ぷらにしてもらいました。

 時間がまだ早いので、中州エリアの屋台を覗いてみます。ここも外国人が多いですね。なんとなく入る気にもなれないので、30分程歩き、「元祖長浜屋」に行き、トン骨ラーメンを頂きました。帰りはバスでホテル近くまで戻ります。部屋に戻りましたが、窓の外からは、まだどこからか、バンド演奏が聞こえてきます。

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東尋坊、丸岡城、山中温泉

<三日目>

 今日は、東尋坊を見て、丸岡城、山中温泉経由で小松空港に向かいます。あわら温泉周辺は田園地帯ですが、この美松の前も田んぼです。あわら温泉の中心地で、天皇も宿泊されことのある由緒ある旧角惣の広大な跡地を開発しています。隣地の方に伺うと、星野リゾートが建つようです。最後は、あわら温泉の発祥の地を訪れます。銘文を読むと、1883年に日照り対策で掘った井戸から湯が吹き出たことが始まりとのことです。

 あわら温泉から雄島は車で15分くらいです。島までは、224mの朱塗りの大橋が架かり、歩いて渡ることができます。雄島の周囲は断崖絶壁なので、橋を渡って大湊神社の大きな鳥居をくぐり、78段の石段をのぼります。のぼりきったところが、雄島周遊のスタートです。1周は30分位です。

 時計回りにしばらく歩くと、大湊神社の拝殿が有ります。この神社は海上守護の神様と仰がれ、近くの港へ寄る船舶は必ず参拝するそうです。源義経も奥州へ下降する際、武運と海上の安全を祈願しています。拝殿正面の崖の上に海に向かって鳥居があります。ここからが参道なのでしょうか。しばらく行くと、瓜割の水の看板があります。岩礁に湧く真水小さな泉だそうです。看板の指示の通り進み、周囲の岩礁を探しますがなかなか見つかりません。15分位悪戦苦闘してようやく発見しました。ここのそばに小型の雄島灯台があります。雄島を半周した辺りから、道から樹木が無くなり、海がよく見えます。遊覧船は、東尋坊の遊覧船はこの辺りで引き返すようです。

 東尋坊につき、まず高さ50mの東尋坊タワーにのぼります。360度眼下に景色が見えます。但し、残念ながら東尋坊の崖はここからは見えません。東尋坊に行く途中、東尋坊商店街の外れの「IWABA CAFE」で一休みします。開店一番乗りということも有り、海がよく見え、東尋坊の碑の前の席に座ることが出来ました。

 100m位続く東尋坊商店街を抜けた先に、東尋坊の崖があります。一帯はマグマが冷えて固まった柱状摂理の岩石が、海食で、険しい、垂直の岩壁となっています。これほどの規模を持つものは世界的にも珍しく、地質上極めて貴重とされ、国の天然記念物および名勝に指定されています。20m超の崖を上からのぞくと、吸い込まれそうな高さで、そのため、東尋坊は自殺の名所としても有名です。遊覧船が壁の前にエンジンを止めて停泊していますが、荒波でかなり揺れています。船に弱い人は、地獄では?

 丸岡城に行く途中、坂井市の市街に入ります。三国駅の近くに坂井市龍翔博物館が有りますので見学していきます。1879年に建築された小学校の外観を復元した博物館です。4階の展望バルコニーからは、九頭竜川の河口や上流側が一望出来ます。展示は、坂井市の地理、歴史、産業、文化人等ですが、越前織りとして細い糸で作る「織ネーム」や「美術織物」の緻密さには驚嘆しました。

 昼食は、線路を隔てて反対側に有るそば処 盛安で、温かいごぼう天そばと、きのこそばを頂きました。後から知りましたが、この店は創業100年の老舗で、2021北陸ミシュランプレートに選ばれています。

 昼食後。現存12天守のひとつ、丸岡城に向かいます。この城は、柴田勝家の甥の柴田勝豊が築きました。屋根は二重ですが、内部は三階となっています。こぢんまりとした天守なので、階段は日本一急(65度)といわれ、登山の鎖場のような感覚で、ロープをつたってのぼる必要があります。

 丸岡城の近くには、一筆啓上 日本一短い手紙の館があります。「お仙泣かすな」は、丸岡藩初代藩主の本多成重(幼名お仙)の父・本多作左衛門重次が妻に宛てた手紙で、これに因んで坂井市では、1993年から「一筆啓上賞」として、日本一短い手紙(1~40文字まで)のコンクールを行っています。入賞作品は館に展示されています。

 国道364号で山中温泉を目指します。雪が心配でしたが、道の両側だけに残っています。こおろぎ橋駐車場に車を止め、山中温泉ゆげ街道を散策します。途中には、奥の細道で芭蕉が敦賀に行く前に逗留した、泉屋の址があります。ゆげ街道の突き当たり、菊の湯(女湯)の前に、足湯と飲み湯が有りましたので、温泉を飲み、足湯につかりました。

 大聖寺川沿いの鶴仙渓に行くため、お薬師通りを進み、あやとりはしに向かいます。あやとりはしはその名前のように、くねっています。橋を渡って、川沿いの遊歩道に下りてみます。既に遊歩道には雪は無く、散策できます。川は雪解け水で、かなり水量があります。こおろぎ橋まで歩き、駐車場に戻ります。

 国道364号の山道を抜けると加賀市の市街に入ります。九谷焼美術館に行ってみたところ、なんと、臨時休業!代わりに、「久谷満月」に立ち寄り、九谷焼を品定めしてみます。時間も無かったので、鑑賞のみ。回転寿し処太平で、お寿司と創業260年という加賀市橋本酒造の大日盛りを頂き、今回の旅行を終えました。

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越前海岸、あわら温泉

<二日目>

 今日は越前海岸沿いに北上し、あわら温泉に向かいます。ホテルの部屋からは敦賀駅の構内がよく見えます。朝食前にホテル周辺を歩いてみます。駅前のアーケード商店街から氣比神宮にかけて、松本零士の銀河鉄道777と宇宙戦艦ヤマトのキャラクター像28体が設置されています。スタート地点で銘文を読むと、かつて敦賀~パリ間に欧亜国際連絡列車があったことに因んでだそうです。像は、50mおきくらいにありますので、順に物語を辿ることが出来ます。

 越前海岸、国道305号を車で30分程進むと、河野地区に、かつて盛んで有った北前船の二つの家の船主屋敷を保存・公開している通りが有ります。最初は、右近家の屋敷を見学します。主屋には、かつて所有していた北前船の幟が高い天井に掲げられています。右近家は、増毛や小樽の鰊漁場を経営した他、小樽での倉庫業、炭鉱や農場経営もしていたようです。海運業はリスクも大きいことから、現在の損保ジャパンの前身の日本火災海上保険の設立に貢献し、当主は歴代の社長も務めています。裏の高台には、1935年に建てた西洋館があり、眼下に街道と日本海が一望出来ます。

 次は、中村家の屋敷を見学します。右近家同様こちらも主屋の天井は高いです。右近家同様に北前船の船主ですが、庄屋であったことから藩とのつながりが強く、藩主等視察の際は、ここに立ち寄るそうです。その縁もあって、本座敷には、福井藩主松平春嶽の「冬青(モチノキ)舎」の扁額が有ります。そのモチノキは今でも庭に高く茂っています。

 「越前ガニは、福井県で水揚げされたオスのズワイガニで、漁期は11月6日~3月20日。他方、水ガニは、越前ガニが脱皮したばかりの若ガニで、手で割ることが出来るほどに殻は柔らかく、身出しがしやすい、身はみずみずしくジューシー、但し、漁期は2月19日~3月20日と短い。地産地消型の食材で、県外に出回る事はほぼ無い」と聞いていたので、水ガニを一度は食したいと思っていました。今日は3月13日でギリギリです。途中、まるさんビーチマートに立ち寄ると、越前ガニに並んで水ガニが有りましたが、生です。残念。次に、道の駅越前、うおいちに行ってみると、なんと茹でた水ガニがありました。早速買って外で頂くことに。確かに殻は薄く固くは有りませんが、水ガニだけあって、若干水っぽい感触。試食できて良かったです。

 昼食は道の駅越前のかねいちで海鮮丼を頂くことに。こちらは、越前ガニと地元の漁港で獲れた魚が乗っています。

 道の駅には、隣接して、越前ガニミュージアムがあります。越前ガニの生態や漁の様子、越前ガニ(揚げた漁港を示す黄色のタグが付いています)や越前沖の魚類の水槽などが多数展示されています。魚船の操作シミュレーターや轆轤(ろくろ、回して漁船を浜に引き上げる道具)体験のコーナーも有ります。

 国道を10分程進み、玉川温泉地区に入ると、玉川洞窟観音が有りますので、参拝します。言い伝えでは、玉川の漁師が、漁であげた観音様を捨てたものの、再度網にかかったことから、洞窟に祀ったとあります。元々はその名の通り、天然の洞窟内に鎮座していましたが、1989年に付近の道路が崩落し15人亡くなる事故があり、その一帯立入り禁止となっため、1994年に現在の場所、コンクリート製の人工トンネル内に祀られています。

 しばらく行くと越前岬に到着します。国道を右に折れ、展望台から日本海を眺望したいと思います。途中の丘の斜面は、越前町営の越前岬水仙ランドで、満開時は1500万本の水仙が咲くそうです。盛りは過ぎていますが、まだ若干残っています。ここの灯台にあかりが灯る夕景は「日本の夕陽百選」に選定されています。

 この一帯は山の急斜面が直接日本海に臨む地形で、海食崖が連なり、海蝕洞や奇岩奇石が点在する越前海岸の代表的な景勝地です。それぞれ色々な名前が付けれれており、一つ一つ見ていくと時間がいくら有っても足りません。 

 今日の宿泊先は、美松です。あわら温泉の西のはずれ、駅からは1㎞ほどの位置にあります。近くに喫茶店は無いので、宿泊先のロビーで、美しい庭を見ながら抹茶セットを頂き、一休みしました。玄関には藤井聡太竜王の等身大の看板があります。昨年10月に、この宿で、佐々木勇気八段との竜王戦七番勝負第2局が行われた記念です。ここでは負けましたが、4勝2敗で防衛しています。

 休息した後、街を散策します。ここは大概の人がイメージする温泉街とは異なり、源泉が74本もあり個々に源泉を持っているためか、田園に囲まれた広々としたエリアに、大きなホテル、旅館が点在して建っている感じです。これは1956年の大火で旅館が26軒のうち19軒が焼失した後、碁盤目に区画整理したためです。いまの時間、中心地の湯~わくDoriも、オフシーズンのためか?まだ時間が早いせいか?湯治客はまばらでした。

 ここの旅館は、夜はアルコール類が飲み放題!です。夕食前にここのラウンジでスパークリングワインをガンガン飲んだせいで、夕食の時は、アルコールを飲む気力は弱まりました。但し、地酒が4種類有りましたので、飲み比べはしました。私には、左端の越前岬雪舟(田辺酒造)が合いました。食後もロビーでは酒類が提供されていましたが、疲れましたので部屋に戻ります。

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武生、敦賀

<一日目>

 今回は、昨年の5月に続き、福井を訪問します。小松空港から出発し、最初は、NHKの「光る君へ」で紫式部が使っていた、武生の越前和紙の里に向かいます。初めに、そこの紙祖神である岡太(おかもと)神社を目指します。後ほど気がついたのですが、ここは岡太(おかふと)神社で、全くの別物。紛らわしいですね。しかし、この地は栗田部地区といい、26代継体天皇が潜龍(即位までの長期間在郷)した歴史有る地区で、この神社は、治水事業の安全を祈願し、476年に創建した由緒有る神社です。そのせいもあってか、建物の細工も手が込んでいます。但し、残念ながら、雪囲いで全容は見えません。本殿は高台に有り、一帯の街並みが、よく見えます。

 街の中心部にある「紙の文化博物館」に立ち寄ります。ここでは、越前和紙発祥の伝説や歴史が解説されるとともに、美しい手の込んだ和紙の見本が数多く展示されています(展示は残念ながら撮影禁止)。

 博物館の前から「和紙の里通り」が始りますが、紙すきの実演を見るため、「卯立の工芸館」に入ってみます。ここは、全国で唯一、工程を一つの工房で再現しているそうです。但し、原料の楮(こうぞ)、三椏(みつまた)は、茨城県等から調達しています。工程は、原料の乾燥した木の皮を釜で煮る→漂白しちり等を取った後、棒で1本の繊維まで打解(重い木の棒で長時間叩きます!)→繊維の入ったすき槽に、トロロアオイの根からとった粘液を入れ、すく→均一に力を加え脱水→乾燥、です。担当の方から、実演も混ぜながら、詳細に説明頂きました。

 次は、五箇地区に紙すきの業を伝えた「川上御前」を祀る岡太(おかもと)神社・大瀧神社に向かいます。日本の紙幣は、国立印刷局王子工場から始まり、越前の紙すき職人と用紙開発を進め、世界一の透かし技術を確立したとのこと。そこにはかつて岡太神社の分社もあったそうです。神社の社屋は、拝殿と本殿が一体化し、屋根は独特で、日本一複雑な形状(地元のパンフレットでは)をしています。

 昼食は、地元の武生製麺が、そばの栽培、製粉、つゆ造りまで、全てを一貫して行っている「越前そばの里」で頂くこととします。人気№2のたけふセットにしました。ちなみに№1は、福井セットで、おろしそばの代わりに、ソースカツ丼です。ここは、観光客だけでなく、地元の人も大勢来ています。

 越前には、南北朝の時代、刀匠千代鶴国安が、作刀のかたわら鎌を作ったことに始る「越前打刃物」があります。食事の後、越前打刃物の共同工房である「タケフナイフビレッジ」に立ち寄ります。次は、敦賀に向かいます。

 敦賀港を囲むように金ケ崎緑地が整備され、その周囲に歴史有る建物が並んでいます。ところが、一帯は全て定休日が水曜日。残念ながら、どこにも入れませんでした。調査不足ですね。敦賀赤レンガ倉庫では、翌日から9月2日まで「かいじゅうステップSDGs大作戦 in敦賀赤レンガ倉庫」が開催されるようで、PR動画を作成していました。

 気を取り直し、神社仏閣を巡ります。最初は近くの金崎宮(かねがさきぐう)です。ここは南北朝の戦いで金ケ崎城に籠城し、非業の死をとげた、後醍醐天皇の2人の皇子、尊良親王、恒良親王を祀る神社です。尊良親王が永年思いを寄せた姫とめでたく結ばれたことから、恋の宮として有名です。また、「金ケ崎の退き口」の際、お市の方が、両端をひもで結んだ小豆袋を兄の織田信長に届けたことで、窮地を脱したという逸話に因み、「難関突破守」も置かれています。

 次は、越前国一宮の氣比(けひ)神社です。ここは、古事記や日本書紀にも記述が有り、主祭神の氣比の大神は、2000年以上前に、ここに降臨したと言われています。境内の建物は空襲で焼失したそうですが、火災を免れた朱色の大鳥居は、日本三大木造大鳥居(他は、春日大社と厳島神社)と言われています。境内には、702年に社殿建立の際に湧き出したという神水(名称は長命水、飲んでみました)や、南北朝争乱の1336年に宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたと云う旗掲の松(落雷で焼け、旧松根として残る)があります。またこの神社は、奥の細道の最後の方で松尾芭蕉が訪れています。

 宿泊先であるマンテンホテルに行く前に、日本三大松原(他は、美保の松原と虹の松原)である氣比の松原に立ち寄ります。ホテルは駅の直ぐ近くにあります。新幹線が開通したことも有り、駅舎は真新しいです。

 夕食はホテルの方の勧めも有り、まるさん屋に入ります。このお店は、下が魚介系の土産物屋で、2階が昼から夜までずうっと開いていて、寿司から鍋から定食から何でもある居酒屋です。地の物、季節の物を、色々頼んでみました。地元の人も訪れるおいしい店でした。これで1日目は終了です。

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国内旅行

尾道、三原

<三日目>

 宿泊先のホテルから岸壁までは100m位です。目の前の尾道海道は非常に狭く、ここから対岸の向島(むかいしま)までは300m位です。

 尾道といえば坂の街、早速、大宝山(通称・千光寺山)の頂上を目指すべく、ロープウェイ山麓駅に向かいます。1階が切符売り場で、3階が乗り場です。乗り場へは、左にある階段か右にあるエレベーターで行きますが、とりあえず今回はエレベーターで。乗っている時間は3分ですので、あっという間に山頂駅に到着です。

 頂上の千光寺公園には、2022年に出来た千光寺頂上展望台PEAKが有りますので早速上り、尾道のパノラマを堪能します。今日は快晴で、左には瀬戸内しまなみ海道の尾道大橋が、正面には向島の造船所が、右には瀬戸内海の島々がよく見えます。

 絶景を見た後、文学のこみち(千光寺公園の山頂から千光寺までつづく散歩道)を下っていきます。途中には、尾道ゆかりの作家・詩人の名作が刻まれた文学碑が所々にあります。こみちとはいうものの、巨岩、奇岩がごろごろの道で、この山の成り立ちは何だったんだろうか、とか、岩は下に落ちて行かないのかな云々と考えさせられます。

 文学のこみちを下った先の、標高140m地点に、806年に弘法大師が開基した千光寺があります。ここの境内からも尾道市街や尾道水道、向島等が一望できますが、ここから取られた朱色の本堂の写真が観光案内などに使用されています。本堂は山の斜面にありますので、突き出た舞台造りで、朱色なので別名「赤堂」とも呼ばれています。この辺りにも大きな石がごろごろあります。

 千光寺からの道を下りる途中、尾道ゲストハウス 「みはらし亭」で一休みと思いましたが、時間が早く、残念ながらまだ開店していません。その辺りから下を見ると、これも尾道紹介の写真には必ずある天寧寺海雲塔がよく見えます。この塔は、1367年に足利義詮が建立し、国の重要文化財となっていますが、現在は三重塔ですが、建築当時は五重塔であったようです。長い坂道の途中、猫が居ましたが、尾道の猫は絵になりますね。

 ロープウェイの山麓駅に接してある、艮(うしとら)神社に参拝します。この神社は平安時代初期の806年創建で、尾道で最初にできた神社とされています。拝殿の手前にある楠は樹齢900年と推定されており、「艮神社のクスノキ群」として広島県指定の天然記念物となっています。また、ここは、大林監督の映画「時をかける少女」のロケ現場で、原田知世演じる主人公の芳山和子が時空を超えて降り立った場所です。それらしい雰囲気はあります。

 昼時となりましたので、やはり尾道ラーメンを頂くことにします。観光協会の店マップを見て、近くにある「丸ぼし」に入りました。店の名前にもあるように、醤油味ベースに、いりこだしがきいています。

 千光寺山からよく見えた尾道市役所に行ってみます。市役所の5階屋上は展望デッキとして開放されており、尾道海道や反対側の千光寺山方向が一望出来ます。当日は風も無く穏やかな日でしたので、しばらく、バルコニーでのんびりします。次はお隣の三原市の三原城に向かいます。

 三原城は、小早川隆景が築いた城で、満潮時に瀬戸内海から見ると、海の上に浮かんで見えることから、かつては「浮城」と呼ばれたそうです。残念ながら、1894年、山陽鉄道三原駅建設の際に、城地は駅用地となり、山陽新幹線開業と三原駅高架化により、高架が本丸および天主台跡を貫いてしまっています。そのため、天守台跡へは駅のコンコースから階段を上っていきますが、立派な堀と石垣以外は残っていません。

 三原市内を歩いてみます。三原沖は岩場が多く、タコの絶好の棲みかとなっているそうで、三原のタコは「三原やっさタコ」というブランドになっています。それに因んでか、道路脇にはタコのモニュメントがあちこちに有ります。市は「浮城三原城」と打ち出していますが、遺構が、街の外れの船入櫓跡位しか残っていないのが残念です。

 空港に向かう途中、紅葉で有名な臨済宗の佛通寺に参拝します。紅葉シーズンの11月は交通規制がされたり無料のシャトルバスが出たりで大賑わいのようですが、今は逆に訪れる人は誰も無く、静寂に包まれています。境内は枯山水で、落ち葉一つ無く掃き清められていますが、お坊さんの影も声もありません。逆に不気味です。

 最後は、小早川隆景の居城であった新高山(にいたかやま)城跡に行ってみます。この城は沼田川を望み、標高約200mの船木山に建つ峻厳な山城です。駐車増から案内が有りますので、行けるところまで行ってみることにします。全くの登山道で、本丸跡まではかなりの覚悟が必要です。急な坂道になったところで、ギブアップ。町の案内パンフレットを見ると、城跡からは、付近一帯を初め、瀬戸内海も望めるようです。この城は、小早川隆景が先ほど行った三原城に移ったため、1596年に廃城になっています。いつかは城の縄張りを見ようと思いながら、広島空港に向かいます。

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国内旅行

広島、呉

<二日目>

 市内の見学は、ホテル周辺を徒歩で巡ることにします。本通りアーケードを進むと元安川に突き当たり、相生橋方向に川沿いを歩きます。橋は架け替えられていますが、原爆は、この橋を目標に投下されたといわれています。途中には、勤労学徒慰霊塔、鈴木三重吉文学碑などがあります。爆心近くの橋のたもとにある原爆ドーム周辺では、大勢の外国人が記念写真を撮っていましたが、彼らの心境はどんな物かなと考えました。

 橋を渡って平和記念公園に入ります。入口そばには、平和の時計塔がありますが、原爆投下の8時15分に、毎日チャイムがなるそうです。近くには、平和の鐘が有り、平和を祈念すれば誰でも打てるそうなので、私も鳴らしてみました。更に進むと、原爆の子の像がありますが、よく知られている佐々木禎子さん(当時12歳)の死をきっかけに建てられています。国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼそうです。道の反対側には、丹下健三が設計した、平和の灯、原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館が、原爆ドームとの直線上に並んで見えます。

 北に向かい、広島城を目指します。途中には、昨年2月に開業したばかりの白亜のサッカースタジアム、エディオンピースウイング広島がそびえています。そこから広島城がよく見えましたので、もう一息、と思いきや、城は立派な掘りで周囲を囲まれ、入口は反対側一ヶ所のみ。結果的に遠回りでした。城の天守閣は原爆で壊滅し、1958年に復元されています。天守の周りには高い建物は無いので、遠くまで見渡せ、原爆ドームも遠くに見ることができます。

 城から東に進み、縮景園を目指します。ここは江戸時代、浅野家の大名庭園でしたが、昭和に入って県に寄贈されています。しかし、原爆の爆心から1㎞ほどの所にあるため壊滅的被害にあいましたが、戦後、徐々に復旧し今の姿になりました。短い時間でしたが、ボランティアの方から、園内を案内して頂きました。この庭園で原爆後も残ったのは一部の木と、跨虹橋のみです。池は汽水域なので、鯉は苦手らしく、真水の湧き出る場所に集まっています。市内観光はこれで終了し、呉に向かいます。

 呉には13時頃到着しましたので、早速、昼食です。ここは、やはり海自カレー、大和ミュージアム近くのBEACONで牡蛎フライカレーを頂きました。「護衛艦さみだれ」の味だそうです。

 昼食後、大和ミュージアムの前で、艦船めぐりの案内をしていましたので、さっそく申し込みます。14時発です。湾内に有るため波は穏やかです。出航すると直ぐに、大和を建造した旧呉海軍工廠造船部(現JMU)の工場群が見えてきます。現在は、デンマークに本拠を置くMAERSK社のコンテナ船(全長 335m、総トン数127,814t)の大型コンテナ船を建造中です。岸壁からは呉港の全体は見えないのですが、思った以上の艦船が停泊しており、多くの護衛艦や潜水艦、その他の補助艦船が間近で見学出来ます。運良く、昼食べたカレーの親元である護衛艦さみだれも見ることが出来ました。航空母艦に換装された、目の前にある護衛艦かがは、ひときわ大きく感じます。

 クルーズの興奮も冷めないまま、大和ミュージアムに入場します。入口から入ると直ぐに大和の1/10の模型が出迎えます。ここの施設は呉市の施設なので、呉市や呉鎮守府、呉の造船業などの歴史がパネルや模型、遺物などで説明されています。くわえて、ゼロ戦、回天、海龍等の実物展示もあります。入場料は500円でとても安価と感じます。

 大和ミュージアムの次は、道を隔てた先にある、てつのくじら館です。海上自衛隊のPR施設なので無料なのですが、呉だけにあって、内容は充実しています。1階は海上自衛隊の歴史、2階は掃海艇の活躍、3階が潜水艦の活躍の構成です。屋外に展示されているのは、潜水艦あきしお(1983~2004年)で、艦内に入って、潜望鏡も覗けますし、操縦席に座り、操縦桿を握ることも出来ます。潜水艦の居住空間は、船長室含め、やはり超コンパクトですね。

 呉からは、宿泊先の尾道国際ホテルまで1時間ほどです。夕食はホテルの方のオススメも有り、尾道駅近くの「たまがんぞう」へ。変わった作りの入口が一階にあり、客席は、2階はカウンター、3、4階が座敷です。3階の窓際の席からは、尾道水道が見えますが、真っ暗、何も見えません。やはり地元のと言うことで、刺身、ガンス天(愛媛のじゃこ天と似ているが、ガンス天はパン粉を付けて魚のすり身を揚げている)、しまなみリーフのソーセージ、タコの唐揚げ、〆には尾道つけ麺。日本酒は、亀齢と神雷を頂きました。気持ちよく、ホテルに帰りました。

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国内旅行

岩国、宮島

<一日目>

 正月明け、瀬戸内は暖かそうなので、今回は広島に行ってみます。ところが、寒気が訪れ、山の上にあるためか、広島空港周辺は薄らと雪。先が思いやられます。高速で1時間ほどで岩国の錦帯橋に着きます。海岸に近いためか、雪は無し。快晴です。しかし残念なことに、錦帯橋は3月中旬まで保全工事とのことで、橋全体がシートと木枠に囲まれています。こう言う姿はあまり写真では見ませんね。但し、渡ることは出来ました。

 岩国城へのロープウェイの前は、岩国を治めた吉川家の居館や家臣の屋敷跡地に造られた𠮷香公園となっており、初代藩主、吉川広家の像を初め、当時の建造物が多く残っています。公園は噴水や芝生、木陰、ベンチが整備され日本の歴史公園100選に選ばれているそうです。

 公園を横切ると、ロープウェイ駅があり、数分で頂上に到着します。天守へは、平坦な道と、険しい道がありますので、とりあえずは平坦な道を進みます。10分程で天守に到着します。現在の天守は、1962年に復元された物ですが、麓から見えるように本来の場所より50m南になっているようです。そのおかげで、天守からの眺望は抜群です。下には錦帯橋、遠くには瀬戸内海の島々が、パノラマのように一望出来ます。

 帰りは、険しい道を降りますが、実際はあまり険しくはないです。大回りしないので、逆に近道です。ロープウェイ駅の前にある、からくり時計は、1時間毎に3回奏でるようです。ここからも下界一面が眺望できます。城の下を流れる錦川の河口に2012年に開港した岩国錦帯橋空港がありますが、これは米軍岩国基地の滑走路を利用した軍民共用の空港です。今話題のオスプレイが見えるかと探しましたが、遠くてよく見えませんでした。

 ロープウェイを下り、昼食を頂きに近くの長州屋に入ります。山口県ですので名物の瓦そばと岩国寿司を頂きます。瓦そばは、熱く焼いた瓦の上に乗った茶そばを、甘しょっぱいつけ汁で頂く物ですが、西南戦争の際に熊本城を囲む薩摩軍の兵士たちが、野戦の合間に瓦を使って野草、肉などを焼いて食べたという話に参考に、1961年に山口県の温泉旅館で考案されたとのことです。付け合わせで頂いた岩国寿司は小さく見えますが、強く圧縮されていますので、見た目以上にボリュームがあります。駐車場に帰る途中に、佐々木小次郎の像がありました。吉川英治の「宮本武蔵」のなかでは岩国生まれとなっていますが、実際は不明です。次は宮島に向かいます。

 車は宮島口の駐車場に置き、フェリーで宮島に渡ります。ここのフェリーの構造は前後に自動車の出入り口が付いている(前後が同じ形)ため、旋回せずに接岸できます。10分程で宮島に着きますが、行きの船は観光客向けに大鳥居のそばまで近づいてくれます。今日は1月8日ですが、宮島フェリーターミナルには、まだお正月飾りがされていました。関西流?

 接岸後は厳島神社を目指します。途中には厳島の碑と宮島の碑が並んであります。それぞれの名称の違いが気になりますが、正式な地理上の名前(地図)は「厳島」、PR等に使う場合は通称としての「宮島」を使うとのことです。表参道商店街を抜け、石大鳥居から厳島神社の境内に入ります。

 参道の中程に常夜燈が有り、そこから大鳥居がよく見えます。時刻は14時半頃でほぼ満潮の時刻です。干潮時は、この常夜燈の手前の階段から下りられるようです。受付した後、東回廊から神社内に入ります。ブラタモリで放送していましたが、回廊の床板の隙間が、潮が満ち引きする入り江に建つ社殿を守るための工夫だそうです。観光客が大勢いる火焼前(ひたき:海に向かって突き出た部分。船を誘導するためのかがり火が灯されていたことによる)、高舞台(たかぶたい:海に面した舞台、日本三舞台)を見た後、御本社に参拝し、西回廊を通って外に出ます。

 弥山(みせん)へのロープウェイへは、厳島神社から歩いて15分程とのことなので、行ってみることに。坂道を進み、柳小路、藤の棚公園を過ぎても、まだロープウェイの「ロの字」も見えません。道があってるのかなとも思い始めた頃、あと一息の看板が有りました。それでもまだ、急な階段が100歩以上有りそうです。ようやく、紅葉谷駅に到着しました。観光客で来れる人は居るのかしら?

 山頂へはロープウェイを途中で乗り換え、25分程で到着します。2回目を待っている時間もありますので、正味の乗っている時間は初め10分、次は4分程です。但し下は断崖なので、10分でもかなり長く感じます。後ろを振り返ると、遠くに宮島に向かっているフェリーが見えます。駅から弥山山頂までは徒歩20分程とのことなので、諦め、駅から直ぐの、獅子岩展望台から眺望することにしますが、天気も良く、江田島をはじめ瀬戸内海全体がよく見えます。

 帰りは、下り坂なので楽に下りられます。途中に、ロープウェイ駅行き無料バスの停留所が有りましたが、最初からここに来れば良かったとは思いますが、後の祭りです。厳島神社の境内を通り、表参道商店街に進み、途中の「藤い屋宮島本店」で、紅葉まんじゅうセットで一服し、宮島観光を終了します。

 宮島を後にし、今日の宿の広島ワシントンホテルに向かいます。広島での夕食は、やはりお好み焼きと思い、広島出身の方から紹介してもらった「いっちゃん」に行きます。市内にはみっちゃんが何店舗か有りますが、いっちゃんはそこからの、のれん分けともこと。店主(市居馨氏)が掲載されている本がテーブルの上に置いてありましたので、読んでみると、お店がミシュランガイドに掲載されたり、NHK「プロフェショナル仕事の流儀」に出演したりしている超有名な方のようです。壁にも多くのサインが貼ってあります。しかしながら、来ているお客さんは近所の人やサラリーマンで、そんな大層な店には思えません。お店の人の勧めもあって、牡蛎とチーズのお好み焼きを頂きました。思った以上にあっさりした味でした。

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国内旅行

鞍馬、貴船、三条大橋

<三日目>

 昨日の雨もあがりましたので、予定通り鞍馬に向かいます。もみじのトンネルで有名な叡山電車、市原駅と二ノ瀬駅の間は紅葉も盛りを過ぎているためか、誰も外に関心が無いようです。和風な感じの鞍馬駅前で、立派な鼻の天狗が出迎えてくれます。鞍馬寺の入口である仁王門へは5分程で到着です。

 鞍馬寺仁王門の近くには鞍馬山ケーブルの山門駅がありますが、枕草子で清少納言は「近うて遠きもの鞍馬の九十九折の道」と書いていることもあり、今回はそれに乗らず、九十九折参道を歩いて行くことにしました。山門のそばには、「子供はみんなほとけの子」と書かれた「童形六体地蔵尊」が有ります。参道を上ると、御所に祀られていた由岐大明神を都の北方であるこの地に遷宮してできた由岐神社があります。ここの拝殿は中央に通路がある割拝殿という珍しい形式です。その遷宮の際の儀式に感激した鞍馬の住民が、この儀式と由岐大明神の霊験を後生に伝え守ってきたのが鞍馬の火祭の起源と言われています。参道を更に上ると、鞍馬山の本尊である尊天(大宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化?した「いのち」、天に聳える杉を「玉杉大黒天」と尊崇するための双福苑があります。

 中門辺りで、ようやく参道の2/3です。まだ先は続きます。遠くに朱色の転法輪堂が見えます。重怡上人(じゅういしょうにん)が13年間堂内に籠り、毎日12万遍の弥陀宝号を唱え続け、6万字の弥陀宝号を書いて法輪に納めたのが、転法輪堂の名の由来だそうです。手水舎や転法輪堂の屋根には、雪が積もっています。昨日、京都市内は雨でしたが、こちらは雪だったようです。この先の、貴船までの道が思いやられます。

 鞍馬寺の本殿金堂の本尊は尊天(毘沙門天王・千手観音菩薩・護法魔王尊の三身一体)で、秘仏のため60年に一度、丙寅(ひのえとら)の年(次回は2046年)に開扉されます。また、ここは狛犬ではなく虎です。虎は、本尊毘沙門天のお使いの神獣で、毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていることによるそうです。本殿金堂前のパワースポットで有名な金剛床は、宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模しているとか。金剛床の南側には本殿後方にあった経塚の蓋が、結界の中に置かれています。翔雲台からは、比叡山を望むことができるそうですが、今は雲で遠くは望めません。

 いよいよ険しい山道の「奥の院参道」を進みます。かつて義経が、天狗に兵法を習うために深夜、独り通った道です。少し行くと「屏風坂の地蔵堂」が有りますが、この辺りは、義経が途中で息つぎをした場所とされています。今日、参道は、ぱらつく小雨と、木の上から落ちる雪のしずくで最悪のコンディションです。更に進むと、最澄が刻んだ不動明王が安置されている「不動堂」があります。この辺りは、義経が天狗に兵法を習った場所である「僧正ガ谷」です。夜だと確かに天狗が出そうな雰囲気です。地面が固く、木の根が地下に伸びることが出来なため、地表面でアラベスク模様を描いている「木の根道」を過ぎると、ようやく奥の院である「魔王殿」に到着です。「魔王殿」は、護法魔王尊が降臨した場所して、崇拝さ れてきたとのことです。

 ここからは、貴船に向け、滑らないよう、足下に気を付けながら、一気に坂を下ります。貴船に到着後、一服して、今度は貴船川沿いに、貴船神社の奥宮に向かいます。夏はこの辺り一帯、川床で賑わっているはずですが、今は冬。途中の寒暖計を見ると、丁度摂氏0度です。

 道の脇に鳥居が現れ、そこから奥宮への参道が始ります。最後、神門をくぐると、正面に、奥宮の本殿があります。元々は奥宮が貴船神社創建の地でした。奥宮が洪水で流損したため、1055年に、現在の地に本宮が移されています。奥宮の本殿の真下には「龍穴(りゅうけつ)」と言われる大きな穴が空いていて、その上に社が創建されているそうです。龍穴は神聖なため、誰も見ることが許されません。貴船神社の龍穴は日本三大龍穴(他は奈良県の室生龍穴、岡山県の備前龍穴)だそうです。そう言ういわれもあってか、貴船神社では一番パワースポット感があるようです。

 道を引き返し、最後は、貴船神社の本宮に参拝します。貴船神社は、全国約500社の貴船神社の総本宮です。鳥居から有名な写真スポットの階段を登り境内に入ります。境内に黒馬、白馬の像があり、横の立て札には「貴船神社は、雨乞いの社であり、日照りの時は黒馬、大雨の時は白馬または赤馬を天皇が奉じた。その後生き馬に代え、板の馬を奉じ、ここから絵馬が発祥した」とあります。また、社殿前の石垣から溢れる貴船山の湧き水を、霊泉に浮かべると文字が浮かぶ「水占みくじ」も有名です。今回は占いませんでしたが。

 貴船神社から貴船口駅までは長い下り坂で、徒歩30分くらいですが、これまで歩き続けでしたので、バスに乗ります。5分くらいで貴船口駅に着きます。ここまで来ると、鞍馬山の雪が嘘のように思えます。貴船口から出町柳までの間は、年の瀬で雪模様と言うことも有り、電車内はガラガラでした。

 昼食は、出町柳のフランス料理店epiceで、昼のコースを頂きました。お手軽コースでしたが、魚と肉の両方がでました。何れもおいしかったのですが、特に、オードブルの野菜テリーヌは、非常に手の込んだ料理となっています。店構は古民家を改装した京都らしい町屋で、窓から見える坪庭が雰囲気を出しています。

 最後の見学は二條大橋のそばにある、島津製作所創業記念資料館です。epiceを出て、京阪出町柳駅から、京阪三条駅に行きます。三条大橋はブラタモリの東海道五十七次の番組で東海道の終点として放送していましたので、今回は、番組で出たものの実物を確認をしてみます。まず、橋の東側には、高山彦九郎像があります。幕末の勤王の志士に多くの影響を与えた人物で、昨日見学した皇居を望拝しています。そばには、駅伝発祥の地碑が有りますが、五十七次に因んだためでしょうか。橋を渡って西側で、擬宝珠をチェックすると、やはり、豊臣の文字が有ります。これが出来てから400年は経っているんですね。

 資料館に行く途中、高瀬川沿いを進むと、佐久間象山・大村益次郎遭難の碑と、当時の高瀬舟の復元が有ります。橋のそばの石碑を見ると角倉氏邸址とあり、高瀬川を開鑿した角倉了以は、この辺りに住んでいたようです。

 最後は、高瀬川最北の高瀬川取水口のそばにある、島津製作所創業記念資料館の見学です。この場所は、1875年の創業から45年間本店兼住居として使用されていました。今ある二棟は南棟が1888年、北棟が1894年に増築したもので、登録有形文化財となっています。中は、完全にリノベされており、創業の由来やこれまで製造してきた理化学実験装置等が数多く展示されています。壁に掲げられている家訓は、心に響き頭が下がります。